「司法書士やっててよかった」と思いたくなる日々の中で
司法書士として20年近く地方で仕事をしてきた。独立してからは10年以上、事務員と二人三脚でやってきたけれど、正直「やっててよかった」と心から思えた瞬間は多くない。でも、そんな中でも「そう思いたい」と願う気持ちはずっと持ち続けている。苦しい日もある、しんどい日もある、それでも前を向こうとする時、ふと感じることがあるのだ。この仕事、捨てたもんじゃないかもしれない、と。
心が折れそうな朝、なぜか机に向かう自分
誰にも会いたくない朝、目覚ましに起こされて「今日もまたか」と思いながら布団を抜け出す。胸の奥は重たいままで、机に向かう理由は惰性に近い。でも、気づけば手帳を開いて、予定を確認し、書類の整理をしている。誰かがやってくれるわけじゃない、代わりはいない。だからやる。そんな気持ちで毎日が始まる。
締切とミスと、電話の嵐に埋もれる毎日
業務は日々の積み重ねだけれど、突発的な電話や依頼で予定はすぐ崩れる。しかも、ひとつの入力ミスが全体を台無しにするプレッシャー。たとえば登記識別情報の桁をひとつ間違えただけで、依頼者の信用を一気に失う可能性もある。そんな綱渡りのような緊張感の中で、黙々と書類を仕上げていく日々に、心が擦り減っていくのを感じる。
もう逃げたい…と何度も思ったことがある
正直、何度も「もうやめたい」と思った。特に夜、ひとりで事務所に残って残業しているとき、ふと窓の外を見ながら「自分は何をしてるんだろう」と考えてしまう。でも、辞めたところでどうなるのか。他に何かできることがあるのか。そう自問しては、また机に向かう。逃げ道がないというより、自分の役割が他にないと感じるのだ。
一人事務所の孤独と責任
独立してからの孤独は、想像以上に堪えるものだった。何かトラブルが起きても、誰かに責任を押しつけるわけにはいかない。全部、自分で背負うしかない。日々の小さな判断が全体に影響する仕事だからこそ、どんなに疲れていても気を抜けない。でも、だからこそ得られる達成感もある。
事務員がいても、責任は全部自分
事務員がひとりいるとはいえ、最終的なチェックや判断はすべて私の肩にかかっている。たとえば、ある日事務員が入力ミスをしていた。彼女は申し訳なさそうにしていたけれど、訂正や対処は私の役目。彼女を責めたところで何も解決しないし、怒る気にもなれない。結局、責任者は一人なのだ。
同業者との会話すらままならない現実
地域柄もあり、同業の司法書士とはあまり会う機会がない。ましてや、愚痴や悩みを気軽に話せる関係なんて希少だ。SNSで発信する気力もなく、結局ひとりで抱える。人に話せれば少しは楽になるのかもしれない。でも、そんな暇も余裕もないのが現実だ。
それでも、救われる「ありがとう」の一言
そんな日々でも、ふとした瞬間に心が救われることがある。依頼者からの感謝の言葉、それが何よりの報酬だと思うようになった。書類が完成して、「助かりました、本当にありがとう」と言われるたった一言が、全ての苦労を和らげてくれる。
依頼者との距離が近いからこその達成感
大手事務所とは違い、地方の司法書士は依頼者との距離が近い。顔を見て、話を聞いて、直接やりとりする。だからこそ、感謝の言葉も心に響く。以前、相続登記をした依頼者が、後日手土産を持って訪ねてきたことがあった。「先生がいてくれて本当によかった」と笑顔で言われ、涙が出そうになったのを今でも覚えている。
手続き以上の価値を感じられる瞬間
登記や契約書の作成は、形式的には「事務作業」に見えるかもしれない。でも、その背景には人それぞれのドラマがある。家族の別れ、人生の節目、夢の実現。そんな場面に立ち会い、形にするのが司法書士の仕事だ。だから、手続き以上の価値を提供しているのだと、自分に言い聞かせている。
金銭面の現実と、生活の綱渡り
収入について聞かれることがあるが、「まあまあです」としか言いようがない。繁忙期と閑散期の差が大きく、生活は常に不安定。贅沢なんてできないし、貯金もすぐに目減りする。特に開業当初は赤字続きで、何度も「これで続けられるのか?」と不安に襲われた。
「辞めたい」と「続けたい」が共存する矛盾
今でもふと、「このままこの仕事を続けていていいのか?」と思う瞬間がある。けれど一方で、「辞めてどうする?」とも思う。自分の中で常にこの二つの感情がせめぎ合っている。答えは出ないまま、ただ一日一日を積み重ねている。
天職なんて幻想…でも他に道があるわけでもない
天職と言える人がうらやましい。でも、自分にとって司法書士は「向いてるから」ではなく「やるしかなかったから」始めた道だ。それでも、続けてきた年月が重みになり、今さら別の仕事をする勇気もない。ただ、少しでも意味があると信じたくて、机に向かっている。
だからせめて「やっててよかった」と思いたい
心から「司法書士やっててよかった」と思えた日は数えるほどしかない。それでも、その数少ない瞬間のために今も続けているのかもしれない。大げさではなく、それが自分の支えになっている。だからこそ、今日ももう少しだけ頑張ってみようと思える。