午前九時 依頼人の遅刻とコーヒーの冷め具合
待つことに慣れてしまった男の背中
朝の書類山に囲まれながら、僕はいつものようにコーヒーをすすっていた。が、当然のように冷めている。今日の依頼人も、約束の時間を過ぎてから姿を見せた。 「すみません、ちょっと道に迷いまして」と言い訳がましい第一声。ああ、またか。僕は内心で嘆息しながら、椅子を勧めた。
冷めたコーヒーと熱い愚痴の対比
「コーヒーでも?」と聞いたが、「あ、いえ…」と遠慮された。いっそ断られて清々しい。僕は冷めたコーヒーに再び口をつけ、愚痴の波を胸の中で抑えた。 この依頼、書類の提出期限もギリギリなのに、附属書類がひとつ見当たらないという。そんなことある? だが、あるのだ。これが現実だ。
来所したのは記憶の曖昧な中年男
申請書類より先に出た溜め息
依頼人は中年の男性で、スーツの袖にアイロンの跡がない。「心当たりがあるか?」と聞けば、「うーん…たぶん…いや、やっぱり…」と煮え切らない返事。 机の上に置かれた申請書は完璧だったが、肝心の附属書類がない。必要な書類がないと、登記は前に進まない。
失われた附属書類と心の空白
「これ、絶対に家にあったんです」と彼は言う。だがその“あった”が曖昧なのだ。「たしか母が…いや姉が…いやいや、たぶん僕が持ってたんだと思います」 このあやふやさ。記憶と書類が一緒に曖昧になっていく様は、どこか人間の心の闇を映しているようだった。
書類が届かなかったという事実
郵便事故か故意か無意識か
「郵便で送ったんですよ、簡易書留で。そしたら…届いてなくて」と依頼人は言う。郵便局に問い合わせたが、記録は途中で途絶えていた。 配達記録には“投函済”とあるが、うちの事務所には来ていない。サザエさんなら「タマがくわえてったんじゃないの?」と言いそうだが、現実はもっと厳しい。
依頼人の証言はなぜか二転三転する
「いや、実は送ったのは姉だったかも…」と証言が変わる。「書留」から「レターパック」に変わり、最終的には「誰かに預けた気がします」になった。 やれやれ、、、このままだと、書類より先に僕の理性がどこかへ紛失しそうだった。
サトウさんの塩対応と優秀な検索力
過去の登記から浮かび上がる名前
「シンドウさん、これ。過去にこの依頼人、同じ住所で別名義の登記申請してます」とサトウさんが無表情で言った。すでに法務局のシステムから検索していたらしい。 彼女が示した過去の記録には、今回とは違う筆跡で別の附属書類の記載があった。しかも日付が少しだけ新しい。何かがおかしい。
名義変更の裏にある家族の確執
登記の履歴を読み解くうち、名義変更が急いで進められていた事実が浮かび上がった。しかも、その相手は依頼人の義弟。書類の送付先も彼の住所が経由されていた。 この家族、どうやらちょっとした骨肉の争いを水面下で展開していたらしい。
やれやれ、、、元野球部の推理開始
封筒に残された小さな破れ目
依頼人のカバンにあった茶封筒。その端が、奇妙に裂けていた。指で破いたものではない。何か鋭利なもので切れたような跡だ。 「あ、これは…たぶん郵便受けのときに…」と依頼人が言い訳するが、その目は泳いでいた。
附属書類は確かに一度手元にあった
よくよく聞いてみると、彼はその封筒を一度持ち帰り、義弟に“相談”したことがあるという。そしてその後、附属書類だけがなくなった。 「そんなつもりじゃなかった」と彼は呟いたが、それはどこに向けた言葉だったのか。
誰が書類を抜き取ったのか
依頼人の義弟が怪しいという仮説
サトウさんは「義弟ですね。百パーです」と断言した。珍しく感情が込められた声だった。僕はうなずきながらも、ひとつの違和感に気づいていた。 郵便事故というより、誰かが意図的に書類だけを除いた。その“誰か”は、義弟で間違いないのか。
だがサトウさんは真っ向から否定する
「それが、義弟のところには郵便が届いた形跡もないです」とサトウさんは続けた。「もしかすると、依頼人自身が…無意識に…」 やれやれ、、、記憶と責任はときに入り混じる。だが、もう少しで答えに届きそうだ。
過去の遺産分割協議書に潜む別の動機
印鑑の位置が不自然に曲がっていた
昔の遺産分割協議書を見返すと、ある印鑑だけが異様に斜めだった。おそらく緊張して押したか、あるいは押し直した痕跡を隠すために捺印したのだろう。 そこに署名していたのは、依頼人本人だった。
家族写真に写っていないひとりの人物
協議書と一緒に持参されたアルバムには、家族の集合写真があった。しかし、そのなかに義弟の姿はなかった。どうやら家族は“和解したふり”をしていただけだったらしい。 写真は真実を映すと言うが、そこにいない者の存在が逆に強調されていた。
真犯人は意外にも依頼人自身だった
自らの意思で記憶を封印した男
最終的に明らかになったのは、依頼人が“自分で書類を抜き取っていた”という事実だった。「自分にとって都合の悪い内容だったんです…つい、無意識に…」 彼は記憶の中で、その行為を消してしまっていた。だが、心の奥にはずっと罪悪感が残っていた。
附属書類は仏壇の中に眠っていた
「もしかして…」と彼が帰宅して仏壇を開けると、そこに封筒があった。母親の位牌の裏に、そっと隠すように挟まれていた。 彼はそれを持って戻ってきた。「ありました…」と差し出した手は、震えていた。
解決とその後の虚無感
書類が戻っても戻らないもの
書類はあった。登記も進んだ。だが、なにかが戻らない。依頼人は、心の中の“附属書類”をひとつ失ったままだった。 「やり直せるといいですね」と言うと、彼はかすかに笑った。「そう願います」と。
サトウさんの一言が染みる午後
「人って、自分に嘘をつくのが一番得意ですよね」サトウさんが、パソコンのキーボードを打ちながらぽつりと言った。 彼女の視線の先には、僕の冷めきったコーヒーカップがあった。
日常に戻るけれども何かが変わった
机の上の書類は山積みのまま
事件が解決しても、僕の仕事が減るわけではない。登記申請、抵当権設定、遺産分割…やれやれ、、、山積みの書類が僕を見下ろしている。 「次はどんな依頼だろうね」と呟くと、サトウさんが「まだ山の一合目ですよ」と冷たく言った。
やれやれ、、、次はどんな依頼だ
僕は立ち上がり、コーヒーを淹れ直しに行った。温かいコーヒーが待っているだけで、少しは今日を頑張れそうな気がした。 少しだけ、だけどね。