泣くタイミングが分からなくなるほど疲れていた

泣くタイミングが分からなくなるほど疲れていた

泣けない心と、壊れかけた身体

泣けないまま、日々をやり過ごしていると、身体のほうが先に悲鳴をあげ始める。肩こりや頭痛、原因不明の微熱。病院に行っても「ストレスでしょうね」と言われるだけ。心が泣けない代わりに、身体がサインを出しているのかもしれない。だけど、これにも慣れてしまっている自分がいるのが怖い。

感情のスイッチが壊れてしまったのかもしれない

昔は感動ドラマを観て泣いたり、人の話に涙したりすることもあった。けれど、いつの間にか感情のスイッチが壊れたかのように、何も感じなくなってしまった。あまりに多くの「人の死」や「家族の別れ」に触れてきたせいだろうか。それとも、自分の中で「泣いてる場合じゃない」と封じ込めてきた結果なのか。

泣く=甘えと刷り込まれた思考の罠

子どものころから「男は泣くな」「弱音を吐くな」と言われて育ってきた。だから今でも、「泣く=負け」「泣く=逃げ」と無意識に思っているのかもしれない。泣きたいけど泣けない。そんなとき、ふと自分の過去の刷り込みに気づき、苦笑いする。泣くことを許せないのは、たぶん他人じゃなくて自分自身だ。

「泣けないこと」が自慢になっていた頃

20代の頃、「俺、泣いたことないんだよね」がちょっとした自慢だった。強い男であることが格好良いと思っていた。でも今、泣くことができる人を見ると羨ましくなる。感情を素直に出せるのは、本当はとても強いことだと、年を取ってやっとわかった。泣けないままの自分が、ちょっとだけ情けない。

それでも誰かに話したいと思った夜

仕事が終わった深夜、冷えた事務所で一人ぼーっとしていたとき、「誰かに話を聞いてほしい」と思った。でも、誰もいない。電話をかける相手も、LINEを送る相手も思いつかない。結局、コンビニでビールを一本買って帰るだけ。心の奥底に沈んでいた「孤独」が顔を出すのは、決まってこういう夜だ。

話す相手がいないことが一番つらい

孤独ってのは、騒がしいものではない。ただじわじわと、静かに心を締め付けてくる。誰かに「疲れた」と言いたい。でも、それを受け止めてくれる人がいない。友達は減ったし、恋人もいない。家族も遠い。気軽に愚痴れる存在がいたら、少しは違ったのかもしれない。

弱音を吐く場所を探して、また仕事に戻る

カフェに行ってみたり、ネット掲示板を覗いてみたりするけど、どこにも本音を出せる場所はなかった。「誰かに聞いてほしい」という気持ちだけが残り、気づけばまたパソコンの前に座っている。そうして、気持ちをごまかすように業務を始める自分がいる。泣きたいけど泣けないまま、今日も一日が終わっていく。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。