空欄の来訪者
午後の静寂を破るチャイム
薄曇りの空の下、事務所のインターホンが鳴った。来客は珍しく、少し緊張する。私はコーヒーを飲みかけた口を止め、受話器を取った。
画面に映ったのは、髪の長い若い女性。無表情のまま「相談があるんです」と言ったその声が、どこか記録されたテープのように感じられた。
やれやれ、、、今日は静かに書類整理ができると思ってたのに。
書類に足りないもの
彼女が差し出したのは、ある土地の名義変更に関する委任状だった。だが、それには通常添付されるべき身分証のコピーがなかった。
「忘れました」と言う彼女に対し、私は少し眉をひそめた。司法書士の仕事は書類が命だ。
それにしても、なぜ今この書類を?
住民票のない依頼
申請書には記載された住所があった。しかし、調べてみると、その住所に彼女の名前は住民登録されていなかった。
郵便物の転送記録もなし、電話もつながらず。まるで幽霊のようだ。
「本当にここに住んでいたんですか?」と尋ねると、彼女は曖昧に頷いた。
サトウさんの不機嫌な推理
記憶の抜け落ちた相談者
サトウさんがコーヒー片手にぽつりとつぶやいた。「この人、たぶん自分が誰かよく分かってないですよ」。
「え?」と聞き返すと、「言葉の節々に違和感があるんです」と淡々と続けた。
それを聞いて私は寒気を感じた。本人確認ができない依頼人ほど怖いものはない。
白紙の履歴と一致しない筆跡
委任状の出所
彼女の委任状は一見完璧だった。公証人の押印もあり、日付も正しい。
だが、私が再度彼女に名前を書かせると、その筆跡は明らかに委任状と異なっていた。
「これはあなたの筆跡じゃありませんよね?」と聞くと、彼女はわずかに笑って言った。「そうですよね」。
過去を消したい誰か
彼女の話す過去は曖昧で、矛盾も多かった。家族について聞くと、「もういません」と短く答えるだけ。
まるで、存在そのものを消そうとしているかのようだった。
戸籍も住民票も、彼女の存在を証明するものが一切なかった。
戸籍と登記簿の不協和音
やれやれ、、、いつものように巻き込まれた
戸籍の記録を洗っても、彼女の名は見つからない。一方で、登記簿には彼女が所有者として関与した痕跡があった。
やれやれ、、、今日もまた、ただの司法書士には荷が重い話になってきた。
だが、こういうときこそ、俺の出番なのかもしれない。
記憶を取り戻す鍵
彼女がふとバッグから取り出した古びた手帳。そこには、今の名前とは違う旧姓の名前が書かれていた。
その名前で戸籍を追っていくと、10年前に行方不明になった女性の情報に行き当たった。
「これ、あなたのことじゃないですか?」と尋ねると、彼女は黙って頷いた。
名義変更の罠
旧姓に隠された真実
10年前に失踪した女性は、借金から逃げるために名前を変え、別人として生きていた。
彼女が持っていた委任状は、かつての親族が用意したものだったが、それを利用して不正に登記を変更しようとしていたのだ。
つまり彼女は、加害者であり、同時に被害者だった。
過去を受け入れた依頼人
すべてを説明した後、彼女は静かに頭を下げた。「逃げてたんです。でも、もう終わりにしたい」。
その目に浮かんだ涙は、確かに彼女が自分を取り戻した証だった。
私はただ頷くことしかできなかった。
サトウさんの一言
書類が語るもの
事務所に戻ると、サトウさんが小さく言った。「今度から、身分証はちゃんと持ってきてもらいましょう」。
私は苦笑いしながら、机に向かって処理すべき山積みの書類を見た。
人の人生は紙に現れ、そして紙に隠れる。書類の一枚一枚が、真実への扉になることもある。