朝のメールチェックから始まった
いつものように朝イチでメールチェックをしていたら、件名だけが空白のメールが一通届いていた。差出人の名前にも見覚えがない。添付ファイルが一つ、無造作に添えられていた。
添付ファイルの拡張子はPDF。だが、気になるのはファイル名だった。まるで誰かのフルネームのような文字列。何かの依頼かと開いてみたが、白紙だった。
いたずらか、あるいはウイルスか。だが、俺の司法書士としての直感が、妙なひっかかりを覚えていた。
削除されたはずのファイル
そのファイルをデスクトップに保存して、数分後に開こうとしたら、すでに削除されていた。ゴミ箱にも入っていない。まるで最初から存在しなかったかのように。
だが、システムの一時ファイルを調べてみると、確かにそのPDFは一度存在していた形跡が残っていた。名前は「ナカジマユウタロウ」。
それは、過去に一度だけ相談に来た人物の名前だった。彼は、数ヶ月前に父親の遺産に関する相談に来たきり、音信不通だった。
依頼人が残した奇妙なメモ
机の引き出しを整理していると、ふと折りたたまれたメモ用紙が目に入った。依頼人の筆跡で、「ファイル名に注意」とだけ書かれていた。
そんなメッセージを残して消えたナカジマ。あの相談の内容は、どうにも腑に落ちない点が多かった。遺産が突然増えていたことや、もう一人の相続人の存在が曖昧だったことなど。
当時は何も言わなかったが、今思えば、何かを隠していたのかもしれない。サトウさんにこの件を相談することにした。
サトウさんの冷静な分析
「また妙なことに巻き込まれてませんか?」とサトウさんは眉一つ動かさずに言った。うっかりしていたとは言えず、俺は咳払いをしてごまかした。
事情を説明すると、彼女はすぐにログの解析を始めた。ファイルが自動で削除された時刻、送信元のIP、そしてそのメールのルート。
「これは…内部からのアクセスですね」と、彼女はキーボードを叩きながら言った。「つまり、外部からの送信を装って、身内が送り込んだ可能性がある」
ファイルのタイムスタンプ
削除されたPDFには、作成時刻と編集時刻が残っていた。そこには、ある不動産会社の社内ネットワークが関与していた痕跡があった。
ナカジマがその会社と何らかのつながりを持っていた可能性が高まった。以前の相談でも、その会社の土地を相続対象として話していた記憶がある。
それだけでなく、送信者のIPもその会社のものだった。つまり、メールを送ってきた犯人は社内の人間。そして、ファイル名に込めた名前がナカジマ自身だった。
保存名と依頼内容の矛盾
ナカジマは、遺産の相続において「妹がすべて管理している」と言っていたが、登記簿には彼自身が単独で名義人として記載されていた。
その矛盾に気づいた時、俺の中で一つの仮説が立ち上がった。ナカジマは、何者かに自分の存在を消されようとしていたのではないか。
サトウさんはその仮説を裏付ける資料として、登記申請の履歴に不審な電子署名が混じっていたことを指摘した。署名者の名前、それも「ナカジマユウタロウ」だった。
関係者リストの中にあった共通点
関係者の中に、「タカクラ」という苗字が複数あった。ナカジマの義理の兄にあたる人物で、不動産会社の取締役に名を連ねていた。
どうやらこの一件、単なる家族間の相続トラブルでは済まされないようだ。背後には会社ぐるみの不正な土地転売が絡んでいる気配がした。
俺は旧式の登記簿を引っ張り出し、タカクラの名義変更履歴を辿っていくことにした。すると、不自然な売買契約が複数見つかった。
不自然なアクセス履歴
不動産会社の社内PCへのアクセス履歴を取り寄せてみると、深夜2時過ぎに外部USBが接続されていたことが判明した。しかもその直後に「ナカジマユウタロウ.pdf」が作成されていた。
つまり、あのファイルは社内で作られたものだ。犯人は、ナカジマになりすまして証拠を作成し、そして彼の名義で何かを登記させようとした。
しかし、ナカジマ本人が気づき、司法書士である俺に助けを求めようとしたのだろう。ファイル名に自分の名前を仕込んで。
ある名前が浮かび上がる
全てのログ、登記情報、ファイル名、アクセス記録を突き合わせていくうちに、一人の人物が浮かび上がった。それは、タカクラの部下であり、登記申請を代行する立場にいた男だった。
「ヨネクラヒロシ」。彼の名前が、複数の怪しい登記に関与していた。しかも、ナカジマの失踪直後に不自然な異動が行われていた。
決まりだ。やつが黒幕だ。俺は静かにサトウさんに向かってうなずいた。「ヨネクラに話を聞く。ついてきてくれ」
司法書士としての直感
現地に向かう車内、俺は何度も登記の履歴を見返していた。形式上は完璧だが、あまりに出来すぎている。まるで誰かが教科書通りに「偽装」したように。
「やれやれ、、、これは面倒な相手かもしれないな」と、つい口に出た言葉に、サトウさんが呆れ顔で一言。「それ、毎回言ってますよ」
だが今回は、冗談抜きでヤバい案件だった。ヨネクラが登記申請の裏に何を隠しているのか、それを暴かねばならなかった。
あの日見落としていたもの
ヨネクラは最初、しらを切っていた。だが、彼の署名データと、あのPDFの作成者情報が一致していると突きつけると、目が泳ぎ始めた。
「上からの指示だったんだ…」と、小声で漏らしたその瞬間、サトウさんが決めた。「録音してます。続けてください」
やはり、社内で組織ぐるみの不正登記が行われていた。そしてそれにナカジマが気づき、消されかけたのだった。
決定的な証拠はデスクトップに
ヨネクラの社用PCを押収した結果、決定的な証拠が見つかった。デスクトップ上に保存されていたPDFが、ナカジマの失踪日と一致していた。
そこには、ナカジマの署名が偽造されて登記申請された書類と、彼のメールアカウントに偽の送信メールを保存した痕跡があった。
「保存された名前」が、犯人を告発する形で残っていたのだ。皮肉な話だが、それがナカジマの命綱だった。
ファイル名に込められた意図
ナカジマは消される前に、最後の力を振り絞ってPDFを作成し、司法書士である俺のもとへ送ったのだろう。
ファイル名が自分のフルネームだったのは、そうでもしなければ気づいてもらえないと分かっていたからに違いない。
「助けてほしい」と書かなくても、十分に伝わっていた。俺はその思いを無駄にしなかった。
事件の終わりと、新たな始まり
ヨネクラは逮捕され、不動産会社も組織的な登記不正の責任を問われた。ナカジマは身を隠していたが、後に警察に保護された。
サトウさんは何事もなかったように、淡々と次の業務に取りかかっていた。「次は相続放棄の案件です」と冷たく言う。
俺は、疲れた体を椅子にもたれかけながら、遠い空を見つめてつぶやいた。「やれやれ、、、司法書士ってのは探偵より忙しいかもしれないな」