序章 忙しい朝の違和感
朝のコーヒーがぬるい。それだけで一日が台無しになりそうな気がするのは、たぶん気のせいではない。机の上に無造作に置かれた封筒を見て、僕は今日もトラブルの匂いを感じ取っていた。
「シンドウさん、今朝届いたやつです。差出人の名前、ありませんけど」と、サトウさんが感情ゼロの声で告げる。彼女のそういうところが、逆に信頼できるから困る。
封筒の中の一枚の写し
封筒の中から出てきたのは、一枚の登記簿謄本の写しだった。しかも、不動産の持ち主が亡くなって十年以上経っているにも関わらず、名義が変わっていない。いや、それだけじゃない。
「この所有者、生きてますね。去年、別の土地で名義変更されてます」と、サトウさんがパソコンを見ながらぼそりとつぶやく。
サトウさんの疑念
「生きてるってどういうこと?」と思わず声を上げると、「つまり、死亡届が出てないか、誰かが意図的に名義を変えてないかのどっちかです」との返答。冷静すぎて怖い。
僕はふと昔のサザエさんの回を思い出した。波平が「ワカメの作文は嘘八百じゃ!」と怒鳴っていたシーン。あれに似てる。表に出てることと、本当のことは違う。
依頼人が残した空白
送り主不明の封筒の中には一言メモも入っていた。「この家に真実はありません」。何の宗教かと一瞬思ったが、妙に具体的で無視できない。
サトウさんが言った。「直接見に行った方が早いです。事前に現地調査の許可も取れてます」。この行動力には毎度脱帽だ。
登記名義の不一致
現地に向かう道中、車内ではずっと愚痴をこぼしていた。「なんで俺がいつもこういう役回りなんだ」と言うと、「うっかり見過ごすからですよ」と冷たく切り返された。グウの音も出ない。
問題の土地には、小さな古家がぽつんと建っていた。だが、名義人はこの家に住んでいたことがない。少なくとも、近所の人は誰も知らないという。
消えた所有者の謎
「あの、ここに住んでたっていう○○さんですか?」「いいえ、ここはずっと空き家でしたよ」。近隣住民の証言は一致していた。
しかし、郵便受けにはつい最近まで使われていた形跡があった。公共料金の明細がポロリと落ちる。日付は半年前。誰かがこっそりここを使っていたのだ。
現地調査のはじまり
古家の鍵は開いていた。というより、壊れていた。中には家具がそのまま残され、まるで誰かが夜逃げした後のようだった。
居間のテーブルの上には、またしても登記簿のコピー。しかも、差し替えられた形跡があった。訂正印もない。誰が、何の目的でこんな工作を?
人気のない家と鳴るインターホン
ピンポーンという音が響いた。誰もいないはずの家で、突然インターホンが鳴ると、それだけで背筋が凍る。
恐る恐る出てみると、黒ずくめの男が一言。「あの物件、もう手を引いた方がいいですよ」。そして去っていった。名探偵コナンでもこんなベタな展開ないぞ。
元住人が語った違和感
後日、ようやく連絡が取れた元住人は、かつて名義人の親戚だったという。だが「登記名義が私の名になってるなんて初耳です」ときっぱり否定。
さらに驚いたことに、「あの家は昔、借金の担保に使われてた」とも語った。どうやら、誰かがその事実を隠したまま名義を書き換えたようだ。
登記簿に潜んだ二重の名義
事務所に戻って調査を進めると、登記簿には不審な点が複数見つかった。ある時期から所有者欄の字体が微妙に変わっていた。
「フォントまで見るのは司法書士くらいです」とサトウさんに呆れられつつも、そこがプロの意地というものだ。
直筆署名と印影の矛盾
特に気になったのは、印鑑証明の印影と実際の登記申請書の印影が異なることだった。似てはいるが別物。つまり、偽造。
これはもはや民事の問題ではない。刑事事件に片足突っ込んでいる。警察に通報すべきか迷ったが、まずはもう少し証拠を集めることにした。
古い登記記録の中の偽筆
さらに古い登記記録を法務局で閲覧すると、ある一件だけ筆跡が明らかに違う部分があった。それは、ちょうど名義変更が行われたタイミング。
そこに書かれていたのは、別の住所に住む人物。つまり、登記簿の中に第三者が紛れ込んでいたのだ。
サトウさんの推理
「これは多分、借金の肩代わりをした親族が、所有権をこっそり自分のものにしたケースですね」とサトウさんは言った。
その推理は見事だった。書類上は整っていても、中身は矛盾だらけ。まるで昔の推理漫画のような展開に僕は苦笑いした。
登記変更と相続手続の時間差
確認してみると、相続放棄の手続きがされていたにも関わらず、その直後に登記名義が変更されていた。時間軸の歪みが不自然すぎた。
しかも名義変更は第三者の司法書士が代理していた。これは意図的な操作としか思えない。
見落とされていた法定相続情報
さらに調査を進めると、正当な法定相続人が手続きをしていなかったことがわかった。つまり、偽装された登記が長年放置されていたのだ。
「これ、私じゃなくても気づきますけどね」と、いつものようにサトウさんの塩対応が炸裂する。
真相と告白
再び現地に足を運ぶと、以前の黒ずくめの男が待っていた。彼は元依頼人の弟で、兄の死後、借金問題を恐れて名義をごまかしたと告白した。
「兄貴の借金で親族が迷惑かかるのが嫌で、全部俺が処理したんです」。彼の声には、後悔と疲労がにじんでいた。
過去の借金と身内の裏切り
兄が保証人となっていた借金を巡って、家族はバラバラになった。弟は法の知識がなかったため、誰にも相談できず、不正な登記を選んでしまった。
僕はそれを咎める立場にあるけれど、彼の気持ちがまったく理解できないわけでもなかった。
なぜ登記を変えたのか
「自分の家族は守りたかったんです。でも、間違ってました」。彼の目には涙がにじんでいた。
僕は深くため息をついた。「やれやれ、、、」。サザエさんのように明るく笑えたらいいのに、現実はそうもいかない。
やれやれ一件落着とはいかないか
結局、正当な相続人に通知を送り、改めて手続きをやり直すことになった。登記簿の修正には時間がかかる。けれど、それが僕らの仕事だ。
「今日も昼抜きですね」と言われて、もう笑うしかなかった。
司法書士としての限界と責任
法の隙間を突く行為を完全に防ぐことはできない。でも、その片鱗を見逃さずに拾い上げるのが僕たちの役割だ。
時には正義とは何か迷うこともある。それでも書類の一行から真実を追い続けるしかない。
それでも前に進む
「じゃあ、次はこの未登記の件です」と、サトウさんが新しい書類を持ってくる。終わりが見えない毎日だ。
けれどその繰り返しの中に、誰かの人生が少しだけ前に進む手助けがあるのかもしれない。僕は今日も、机に向かった。