不在者の委任状
かかってきた電話は、何かがおかしかった
月曜の朝、まだコーヒーの湯気が立ち上る中、事務所の電話が鳴った。 「相続の関係で、名義変更をお願いしたいんですが……」 抑揚のない声が、違和感を残して受話器越しに耳へと届いた。
司法書士という職業病
不自然な依頼には、妙に鼻が利く
登記内容を聞くや否や、胸の奥に警鐘が鳴った。 “名義貸し”か――この手の匂いは経験則でわかる。 不安を覚えながらも、とりあえず書類を確認することにした。
サトウさんの一刀両断
容赦のない現実主義者の分析
「これ、本人が生きてること前提ですよね?死亡してるじゃないですか」 サトウさんは資料を一瞥して吐き捨てた。 俺の胃がきゅっと縮む音が聞こえた気がした。
名義貸しと公正証書
署名と印鑑の不自然な符合
数年前の委任状と現在の書類――筆跡は一致している。 しかし問題は、その日付。死亡後に作成された記録がある。 「生きてた証拠を出せ」と言いたくなる矛盾だった。
証明書のない契約
市役所が握っていた事実
戸籍課で確認したところ、当の本人は三年前に死亡していた。 にもかかわらず、直近の売買契約にその名義が用いられている。 死者が土地を売ったというわけか。
地主の影と借地権
名前の背後に浮かぶ人間関係
件の土地には、かつて大家と借地人の微妙な関係があった。 売買契約が白紙になると困る人物が、どうやら存在している。 「波平さんの家を、勝手にノリスケが売ったら怒るだろうな」そんな例えを呟いたら、サトウさんがため息をついた。
供述調書と本音の距離
関係者は真実を語らない
相手方の司法書士と話す機会を得たが、口は堅かった。 「依頼者の意志があったと信じております」その一点張り。 だが、その“意志”は生前に果たしてあったのか?
名義の死者が語る
印鑑と委任状が招いた悲劇
話を追ううちに、死亡前に預けられた実印と委任状が悪用されていた事実が判明した。 まるで遺影のように、死者の名前だけが書類に生きていた。 名義貸しの恐ろしさは、文字通り“名前”を利用されることだ。
やれやれ、、、名義とは重いものだ
法の隙間と人間の欲
不備を指摘し、登記の申請は却下となった。 依頼人の怒声が電話越しに響くが、こちらは淡々と応対する。 「やれやれ、、、」とつぶやいて、俺はそっと受話器を置いた。
それでも法は前を向く
正しさは誰かを傷つける
違法性は明らかだったが、刑事告発には至らず。 結局、事案は民事で解決する方向となった。 “正しいこと”が“優しいこと”とは限らない。
終わらない名前の呪縛
名義とは、もう一つの人生
書類の中に残された故人の名を見つめながら思う。 人は死んでも名前が一人歩きする――まるで生霊のように。 司法書士の仕事とは、その霊を弔うことかもしれない。