午前九時の登記相談
夏の湿気に辟易しながら、俺はいつものように事務所のドアを開けた。エアコンの効いた部屋で、既にサトウさんは黙々とキーボードを叩いている。机の上には新しい相談の予約票が一枚。
「九時に来るって言ってた人、そろそろですよ」
そう告げるサトウさんの声に、どこか違和感があった。まるで、待っているのが人間じゃないとでも言いたげな。
ドアが開く音とともに、黒いワンピースを着た女が無言で入ってきた。
奇妙な依頼人が現れた
「抵当権を抹消したいんです」
女は低い声でそう言った。目元に力がない。だが、その分、唇だけが異様に赤かった。
抹消登記の相談自体は珍しくない。だがこの女、住所も電話番号も答えようとしない。「名前は山根…だったかしら」と自分の名を曖昧に口にした。
「やれやれ、、、」思わず声が漏れた。面倒な依頼の匂いがプンプンする。
名前を消したいという女
女の話を聞くと、どうやら死んだ夫の名義で残った抵当権を、自分が処理したいということらしい。ただし、登記簿に夫の名前を残したくないと繰り返す。
「あの人の名前を、紙の上からもこの世からも消したいの」
どこかマンガ『MONSTER』の中に出てきそうな台詞だった。
俺は登記申請に必要な書類を説明したが、女の反応は乏しく、ただ頷くだけだった。
抵当権抹消の違和感
書類の一式を確認しながら、俺の頭にひっかかりが残る。委任状の日付が妙に古い。だが、押印は新しいインクの匂いがする。
「これ、いつ作ったんですか?」
俺が問うと、女は少し間を置いて「去年」とだけ答えた。
年数のズレ、書式の古さ、すべてが妙にちぐはぐだった。
書類に残る不自然な記載
抵当権者の住所が削除されていた。抹消には問題ない部分だが、まるで何かを意図的に隠すような感じがした。
「ここの空欄、何かあったんですか?」
サトウさんが鋭く指摘する。女は「忘れた」とだけ言って目を逸らした。
サザエさんの登場人物なら、ここで「また波平さんが!」とかオチをつけるところだが、この依頼人は笑わなかった。
一筆の中にある異変
筆跡を見ていると、申請書の中に混じる一筆がまるで別人のように見えた。筆圧、傾き、さらには平仮名の癖までが違っていた。
サトウさんが無言で俺の目の前にルーペを置いた。いつ用意したのかすら分からない。
「やっぱりな。誰かが書類を作り直している」俺の中で確信が芽生えた。
サトウさんの推理が動き出す
「この人、自分で申請する気ないですよね」
サトウさんの推理が始まった。あの女、あくまで俺たちに処理させようとしているだけだった。
俺は思い出す。何年か前、新聞記事で見たある事故死のニュース。夫が階段から転落し、妻が不自然な供述をしていた事件だ。
登記と新聞記事が、細い糸で繋がった気がした。
契約書の中の空白
契約書には、通常記載されている「弁済期日」の項目が削除されていた。これは致命的なミスか、それとも意図的な空白か。
「期限の利益を放棄したって記載もないですね」
サトウさんがさらっと呟く。怖いくらい冷静だった。
これはただの抹消登記じゃない。もっと根が深い何かが隠されていた。
抹消登記の理由をたどる
女の本当の狙いは、名義を綺麗に消し、法的な痕跡をなくすこと。いわば、登記簿という記憶装置のデータ消去だ。
「死んだ夫の借金を、なかったことにしたいだけか?」
いや、それだけじゃない。もっと殺意の温度が高い。
まるで、登記簿そのものを殺人の証拠として処分しようとしているようだった。
故人の名義と謎の委任状
委任状には、すでに死亡していたはずの夫の署名があった。つまり、それは偽造だ。
「どうします?警察に通報しますか?」サトウさんが言う。だが、俺は考え込んだ。
こんな小さな街で、司法書士が警察沙汰を起こすのは面倒だ。
本人確認できない証明書
提出された本人確認書類は、免許証のコピーだった。だが、有効期限が切れている。
加えて、写真の顔と女の顔立ちに微妙な違いがある。もしかして、他人の証明書を使っている?
「これ、本人確認じゃ通りません」
サトウさんが静かに断言した。
時効を逆手に取るロジック
登記簿の内容と時効を組み合わせて、債権者の主張が難しくなるよう仕組まれている。
死後10年経過している抹消、正当な理由があればできるが、証明は女の一言に頼るだけ。
「悪い意味で頭がいいやつだな」
俺は乾いた声で呟いた。
やれやれと言いながら現地調査へ
どうにも不安が拭えず、俺は現地の物件を見に行くことにした。サトウさんも同行である。
空き家となった住宅には、郵便受けに大量のチラシが詰まっていた。だが、その中に一通だけ封が破られた封筒があった。
やれやれ、、、暑い中での現地調査は骨が折れる。
現場に残された封筒
その封筒の差出人は、県外の法律事務所だった。開封されていたが、内容は残っていた。
「債権回収に関するご案内」——まさに、抵当権が絡む通知だった。
だとすれば、債権者はまだ健在であり、抹消の正当性が揺らぐ。
元所有者の不審な転居履歴
さらに調査を進めると、女は数年おきに姓を変え、県内を転々としていた。しかも、その都度不動産を手放している。
まるで、何かを隠しながら動いているような、蜘蛛の巣のような経歴だった。
俺の背中に、冷たい汗が流れた。
事件の核心
これは、事故死などではなかった。登記簿を使った殺意の痕跡、いや、登記を利用した完全犯罪の匂いすらある。
抵当権抹消という手続きは、法の網の目をすり抜ける道具に変わることがある。まさに今回はそれだった。
女は登記を使って、過去と罪を抹消しようとしていた。
偽装された抵当権抹消
申請書類の中にあった偽造の連続。署名、印鑑、証明書、全てがパズルのように巧妙だった。
しかし、その中にひとつだけ“意図しない正直さ”があった。それが、女の目だった。
「あれは、人を一度は殺した目だ」俺の中で、そう確信が生まれた。
真犯人が語った動機
結局、女は何も語らなかった。だが、全てを拒絶する無言の中に、怒りと恐怖が混じっていた。
「あの人が許されて、私が許されないのは変でしょ」
帰り際、女が一度だけ言葉を発した。
それは、法律でも裁けない深い怨念だった。
司法書士が選んだ結末
俺は、登記の申請を却下することにした。理由は、本人確認書類の不備。
これで女がどう出るかは分からない。だが、この街に住む司法書士としての最低限の正義だった。
登記は、静かに拒絶された。
サトウさんの冷たい一言
「まあ、司法書士って便利屋じゃないんで」
サトウさんはコーヒーを淹れながら言った。俺には少し苦かったが、正論だった。
「それにしても怖い女だったな」
そう呟く俺に、「女だけじゃないですよ、男も怖いです」とサトウさん。
やれやれ、、、俺の味方はどこにいるんだ。
そして静かに登記は完了した
その後、別件の抹消登記が静かに完了した。世の中には、本当に正しく書類が整った依頼もある。
俺は、ほんの少しだけ司法書士という仕事に誇りを取り戻した。
次の相談者が来る音がして、俺は椅子から立ち上がった。