午前九時の相談室
あの朝も、いつもと変わらず薄曇りだった。僕が事務所のブラインドを上げると、通りの植え込みにカラスが一羽、まるで監視でもしているかのようにとまっていた。コーヒーを淹れようとキッチンに向かうと、すでにサトウさんが湯気の立つマグカップを僕の席に置いていた。
「今日は九時から予約入ってますよ、シンドウ先生。ちょっと癖ありそうな方でした」 サトウさんの言葉に、僕は一つため息をついた。「やれやれ、、、また一日が始まったか」
不機嫌な依頼人
現れた男はスーツ姿ではあったが、靴は泥で汚れていた。目の奥に何かを隠しているような、そんな曇りがある。彼は手帳を開きながら、ぶっきらぼうに話し始めた。
「実家の土地の名義変更をお願いしたいんです。ただ、登記簿の内容と現実がどうも合わないんですよ」 僕はその一言に、なにか引っかかるものを感じた。
登記簿の不一致
古い登記簿を開くと、確かに現住所と地番にズレがあった。だが、もっと奇妙なのは、過去の名義変更の時期だ。通常であれば贈与や売買があるはずだが、その痕跡が見当たらない。
「ご兄弟は?」と尋ねると、男はうつむき気味に「兄がいますが、もう関係ないです」と短く答えた。
妙な所有者の履歴
登記情報提供サービスで調べを進めるうちに、ある奇妙な事実が見えてきた。十年前、名義が兄から依頼人へと移っていた。だが、売買も贈与も記載なし。
「これは、、、」と僕が呟くと、サトウさんがノートパソコンを覗き込んできた。「名義移転の原因が記載されてない。これ、たまにあるけど、何か隠してますね」
十年前の名義変更
その名義変更が行われた日付を見て、僕の手が止まった。ちょうど依頼人の父が亡くなった数日後だ。つまり相続登記のようにも見えるが、相続人の他の名前が一切出てこない。
単独名義での登記となるには、他の相続人の協力が不可欠だ。だが兄の意思は一切確認できない。
登記簿が示す違和感
司法書士としての直感が、何かが不自然だと告げていた。まるで何者かが登記を先に済ませ、既成事実を作ろうとしたかのような早さだった。
「登記簿は嘘をつきませんからね」とサトウさんが言う。「つくのは、だいたい人の方です」
塩対応の調査開始
この時点で、僕たちはある程度の仮説を立てていた。名義は兄から強引に移された可能性が高い。だが証拠が必要だ。
「法務局行ってきます」とサトウさんは言い放つと、バッグを肩にかけてすぐに出て行った。やはり頼りになる。
サトウさんの冷静な一手
午後三時、サトウさんが戻ってきた。手には一冊の閉じファイルと、印刷された過去の委任状の写しがある。
「これ、見てください。兄の委任状、印鑑がかすれてて不自然ですよ」 言われて見てみると、確かに印影が薄く、名前の一部が判別できない。しかも委任状には証人の署名もない。
法務局とひとつの資料
資料には、登記申請時の司法書士の名前も残っていた。僕はその名前に覚えがあった。三年前、懲戒を受けて廃業した人物だ。
「これ、かなり怪しいですね」と僕が言うと、「怪しいどころじゃないでしょう」とサトウさん。
かすれた印鑑と偽名の影
依頼人に再度連絡し、あらためて兄とのやりとりを尋ねた。「兄からもらったんです、確かに」「もらった?」 贈与契約書はありますか?と聞くと、男は黙り込んだ。
ここでようやく、事実の輪郭が見えてきた。
筆跡が語るもの
筆跡鑑定を専門家に依頼したところ、委任状の署名は兄のものではないと判明した。つまり、偽造の可能性が高い。
依頼人は追い詰められていた。土地をめぐって兄弟間での口論があり、勝手に名義を移したのだろう。
消えた委任状
さらに調査を進めると、法務局に提出された委任状の原本はすでに廃棄されていた。過去の事件のように、真相をつかむには時間との勝負だった。
しかし、印鑑のかすれと筆跡の相違、それに登記の異常な速さが決定打となった。
司法書士の矛盾
依頼人の登記申請を担当した司法書士は、やはり問題の多い人物だった。無資格の助手に任せていたとも噂されている。
僕はこの登記に問題があると判断し、抹消の準備に入ることにした。
あの日の登記はなぜ急がれたのか
父親が亡くなって間もないタイミングで登記が行われていたこと、それがすべてを物語っている。
兄が遺産分割に応じる前に、既成事実を作ろうとしたのだ。
名義人の死と家族の証言
調査の過程で、兄がすでに亡くなっていたことも判明した。生前、弟とは絶縁状態だったという。
遺族からの証言も加わり、登記抹消の手続きはスムーズに進みそうだった。
追い込まれる元依頼人
僕たちの報告を受け、依頼人は観念したのか、黙って頭を下げた。「あのときは、どうかしてました」
サトウさんは淡々と、「どうかしてたじゃ済みませんよ」と言った。それ以上、何も言えなかったのだろう。
嘘をついた動機
結局、土地を奪うことで兄からの優位に立ちたかったのだろう。複雑な感情が、違法という線を越えさせた。
「家族って、やっかいですね」僕が呟くと、サトウさんが「うちは平和です」とだけ返した。
贈与か詐欺か
贈与の形式を取っていたが、実際は詐欺まがいの手口。司法書士が関与したことで、正当性が担保されたように見えていた。
だが、真実は登記簿の行間に隠れていた。
過去から届いた登記簿の正直さ
紙は嘘をつかない。あの時点で何が申請され、どう処理されたか、すべてが残る。
そして今回も、登記簿が最も正直だった。
決定的証拠と時間の記録
証拠とは、きらびやかなものではない。時間と手続きの積み重ねのなかにこそ、真実はある。
登記簿に記された時間の流れが、すべてを語っていた。
誰が得をしたのか
結局、誰も得はしなかった。兄は亡くなり、弟は処罰を受け、土地は宙に浮いた。登記簿はただ、その事実を静かに記録しているだけだった。
やれやれの真実
事務所に戻り、椅子に深く腰かける。窓の外のカラスはもういなかった。「やれやれ、、、これでやっと終わったか」
すると背後から、「次の予約、入ってますよ」とサトウさん。救いのない声だった。
司法書士が語る最後の答え
「登記簿が嘘をつかないなら、せめて人の方が正直であってほしいですね」と僕が言うと、サトウさんは一言、「甘いです」と切り捨てた。
登記簿は黙っていた
記録は嘘をつかないが、それをどう読むかは人次第だ。今回の事件もまた、登記簿はずっと黙って、すべてを見ていたのだ。
静かな午後の後片付け
キーボードの音だけが響く事務所に、秋の風が入り込んでいた。ファイルを閉じながら、僕は肩を回した。
「次の事件は、できれば簡単なのでお願いしたいな」
サトウさんの一言
「難しい方が、先生が活躍できるでしょ」
塩対応にもほどがある。でも、なんだかんだそれに救われている。
次の依頼が鳴る
ドアのチャイムが鳴った。また一人、誰かが嘘を抱えてやって来たのかもしれない。
登記簿は今日も、嘘をつかずに待っている。
補足 登記簿は何を守るのか
登記は財産の記録であると同時に、人の関係の歴史でもある。そこには、喜びも悲しみも、そして争いも刻まれている。
記録と人の曖昧さ
記録は明確だが、人の記憶は曖昧である。そこに司法書士の出番がある。
司法書士という役割
書かれたことと、書かれていないこと。その両方を見ることが、僕たちの仕事だ。