朝の来客
朝一番、いつもより早く事務所のドアが開いた。背の高いスーツ姿の男が茶封筒を握りしめて立っていた。目つきは鋭く、何かに追われているようでもあった。
「この委任状、使えますかね」と、男は唐突に言った。封筒から取り出された書類は、見慣れた様式のもので、表面上は特に異常はないように見えた。
しかし、司法書士の勘は鈍っていなかった。妙な既視感と、言葉にできない違和感が、胸の奥でざわついた。
茶封筒を握りしめた男
男は名乗らず、頑なに依頼の目的を語らなかった。ただ、「不動産の名義変更を急ぎたい」とだけ繰り返していた。説明も浅く、委任者の署名欄もかすかに不自然だった。
事務員のサトウさんは何も言わずにその様子を観察していたが、机の下でこっそりと登記情報を検索していた。目線だけで「こいつ怪しいですね」と訴えかけてきた。
やれやれ、、、また厄介な仕事になりそうだと思いながら、俺は椅子の背にぐったりと体を預けた。
遺言書の検認とその違和感
数日後、男が再び現れた。今度は「遺言書の検認が済んだ」と言って、封筒から新たな書類を取り出した。それは家庭裁判所の検認済みの遺言書だった。
だが、添付された戸籍謄本には不可解な点があった。そこには“唯一の相続人”と記されていたが、前回見せられた除籍簿にはもう一人、別の親族の名があった。
「これ、書類に改ざんの痕跡ありますよ」とサトウさんがボソリ。探偵漫画で見たような台詞が現実になる瞬間だった。
残された委任状
男の出した委任状は、依頼人本人の署名であるはずだった。だが筆跡が不自然に震えている。まるで緊張して書いたかのように。
俺は以前扱った相続案件の控えを引っ張り出し、筆跡を照合した。間違いない、これは本人のものではない。似せて書かれているが、違和感が明白だった。
これはもはや、書類上のミスではない。明確な偽造の可能性を示していた。
サトウさんの冷静な視線
サトウさんは無言のまま、スマホで何かを検索していた。しばらくして、「やっぱり、これ去年亡くなった人の名義になってますよ」と一言。
俺は唖然とした。すでに死亡している人を委任者とした委任状? そんなものが法的に有効なわけがない。
「死人に口なしとはよく言ったもんですね」とサトウさんが冷たく笑った。ゾクッとした。
印影と日付の矛盾
さらに調べると、委任状の日付が死亡日より後になっていた。つまり、死者が記名押印したことになっていたのだ。
この時点で偽造は確定だった。俺は男に「この委任状では登記できません」と伝えた。男の顔が一瞬で青ざめた。
「じゃあ、どうすれば……」とつぶやくその姿は、サザエさんでいうとカツオがやらかした時と同じ顔だった。
被相続人の過去
その後の調査で、被相続人には近所でも評判のトラブルメーカーだったという情報が入った。借金も多く、身内ともうまくいっていなかったようだ。
俺は不意に、遺言書の内容が逆に感じ始めていた。「全財産をこの男に」という記述が、あまりに都合が良すぎる。
これはきっと、金の臭いに群がった誰かの企みだろう。そんな予感が、さらに強くなった。
隣人が語った借金の真実
近所の人の話では、被相続人は最期まで甥の存在を気にかけていたという。男の名前は一度も出てこなかったらしい。
「あの人、いつも甥っ子に電話してましたよ。入院する前の日も、『全部アイツにやる』って言ってました」
つまり、遺言書の内容は嘘だった。現実は、正反対だったのだ。
不動産登記の意外な動き
登記情報を確認すると、何とその物件には数日前に仮登記が入れられていた。登記原因は「売買」。
売買? 相続登記すら完了していないのに、なぜ。そこには別の司法書士の名前があった。俺の知らない“もう一人”が動いていた。
裏で何かがうごめいている——そんな感覚が、現実味を帯びて迫ってきた。
もう一人の相続人
除籍謄本をもう一度見直した。そこに記されていた“甥”が、実は生前の養子縁組で実子扱いになっていたことがわかった。
つまり、男よりも強い相続権を持つ人物がすでに存在していたのだ。そして彼は、すでに別の司法書士と動いていた。
そう、俺の出る幕はない。けれど、この茶番を見逃すわけにはいかない。
誰も知らなかった甥の存在
この甥は、数年前から音信不通になっていたらしい。しかし、実際は関東で普通に暮らしていた。
俺は電話をかけ、事情を話した。すると、「やっぱりそんなことになってましたか……」と静かに応じてくれた。
彼はすでに、亡くなった叔父の遺志を守るため動き出していた。俺たちはようやく同じ線で繋がった。
除籍謄本が示した血縁の証明
最終的に、戸籍の追加証明と新たな委任状で、彼が唯一の正当な相続人であることが確定した。
男は不正登記未遂で警察の事情聴取を受け、司法書士が偽造に気づいたことが証拠として提出された。
俺の仕事は、ここで終わった。やれやれ、、、最後にちゃんと帳尻が合ってよかった。
崩れる計画
事件後、仮登記は抹消され、正しい相続登記が進められた。すべては、一つの委任状の違和感から始まった。
紙一枚の重みを、改めて思い知る。事務所で湯呑みを握りながら、俺は静かにため息をついた。
ふと見ると、サトウさんが珍しく笑っていた。「ほら、たまには役に立ちましたね」——その塩対応も、今日は少し優しく聞こえた。
不正登記未遂の結末
件の男は不起訴にはなったが、罰金刑と行政処分が下った。世間的な信用を失った彼が、今後どう生きていくかは知る由もない。
ただ一つ確かなのは、法は紙の上だけのものではないということだ。登記とは、誰かの人生を背負う行為なのだ。
元野球部の俺に言わせれば、一つのミスで負けが決まる世界に似ている。最後まで気を抜くな、ということだ。
そして、司法書士は語る
書類を片付け、ようやく一息つくと、外はもう夕暮れだった。赤く染まる空が、何ともいえない達成感を与えてくれる。
サトウさんは既にタイムカードを押して、静かに帰り支度を始めていた。「お先に」と言い残して。
やれやれ、、、今日もまた、誰にも褒められない一日が終わった。でもそれでいい。俺の仕事は、誰かの人生を守るためにあるのだから。
正しい手続きの意味を問い直す
登記は、時として真実と嘘の境界線になる。正しく処理された登記が、争いを止め、人を救う。
それを支えるのが俺たち司法書士の仕事だ。誰も気づかないところで、誰かの不安をそっと片付ける。
明日もきっと、また厄介な依頼が来る。でも、まあいい。どうせ俺はモテないんだ。仕事しかないんだから。