朝の書類と珈琲と
朝の机に、依頼人からの封筒が無造作に置かれていた。カフェイン不足の脳では、封も切る気にならない。隣でサトウさんが、無言で珈琲を差し出す。彼女の塩対応は今日もブレがない。
時計の針は9時3分を指していた。予定より3分の遅れが、この日の混乱の始まりだったとは、このとき知る由もなかった。
届かない委任状
封筒を開くと、登記申請に必要な書類一式が揃っていた。ただ、肝心の委任状がない。ああ、これはアレだ。いつもの「うっかり」だ。と思ったら、違った。電話の向こうの依頼人は「渡したはずです」と主張する。
やれやれ、、、こっちは渡されてない世界線で生きてるのに、どうしてこう食い違うのか。まるでサザエさんのエンディングで波平の靴が飛んでくるような唐突さだ。
婚約者が消えた日
依頼人の男性は40代。結婚を控えていたが、最近になって婚約者と連絡が取れなくなったという。彼の語るその女性は、まるで完璧な理想像のようだった。
だが、事務所に持ち込まれた登記申請書には、その女性名義の土地を男性名義に変える手続きが含まれていた。婚姻前に登記とは、ずいぶん急な話である。
恋人か相続人か
恋人として登記を渡すほどの信頼があったのか、それともそれ以上の何かがあったのか。頭の中で、黒い疑念が渦を巻く。サトウさんが、無言で登記簿謄本を手渡してきた。
その手際の良さに「探偵事務所でもやれば?」と内心で思うが、口には出さない。絶対に返事が冷たいからだ。
なぜ先に登記を
婚約者が失踪したのは、登記手続きの直前だった。となれば、登記を急いだのは彼女の意思ではなかった可能性もある。書類には彼女の署名と印鑑があったが、どこかぎこちない。
これは恋の証明ではなく、誰かの意図が仕組まれたものかもしれない。
土地と愛はどちらが先か
サトウさんがぽつりと言った。「愛より先に登記って、少し変ですね」。たしかに、普通は逆だ。恋が先にあって、登記はそのあとにくるものだ。
だが、この事件では順番が逆だった。まるで書類で愛情を証明しようとするかのように。
謄本に隠された過去
登記簿謄本の履歴を追うと、驚くことが判明した。婚約者は過去にも、似たような形で名義変更を繰り返していた。相手の男性は、いずれも数カ月以内に破局していた。
これはただの恋ではない。ある種のビジネス、あるいは犯罪の匂いがしてきた。
転送先は不明のまま
住民票は転出済み。転居先は不明。郵便物も転送されず、完全に姿を消していた。まるで怪盗キッドのような完璧な消え方だった。
「これ、印鑑証明の発行日も変ですね」とサトウさん。さすがの観察眼に舌を巻く。
サトウさんの推理が光る
彼女は書類のフォントの違いに気づいた。署名部分だけ、明らかに別のプリンターで印字されている。つまり、改ざんだ。偽造の可能性が濃厚になった。
「偽造されてたら、もう登記申請は通らないですよね」と俺。彼女は無言でうなずいた。
法定相続分の罠
さらに掘り下げると、婚約者の父親が最近亡くなっており、相続登記が完了したばかりだった。その遺産の土地を、彼女は婚約者に譲った形になっていた。
だが、相続人は彼女一人ではなかった。書類の一部が意図的に隠されていたのだ。
真犯人は登記の向こうに
登記内容を操作していたのは、なんと依頼人の男性自身だった。彼は、彼女の無知につけ込んで名義変更の書類を作成していた。すべては土地目的だったのだ。
「愛していたのに…彼女が消えるとは思わなかった」と男はうなだれた。だが、その目に後悔の色はなかった。
婚姻届と登記申請書の間
婚姻届は提出されていなかった。だが、登記申請書はしっかり準備されていた。それがこの事件の全てを物語っていた。
法は冷静だ。恋愛の温度など、登記簿には記録されない。
そして真実は開示された
サトウさんが最後に言った。「結局、愛なんて言葉より印鑑の方が重いってことですね」。妙にリアルな言葉に、俺はため息をついた。
紙と印鑑が人の関係を変えてしまうなんて、世知辛いにもほどがある。
遺言に記された最後の一行
婚約者の父の遺言には、こう記されていた。「土地は娘が真に愛する者へ譲ること」。皮肉なことに、その願いは叶わなかった。
恋も、登記も、最後に残るのは人の欲だった。
やれやれと俺はつぶやいた
帰り道、書類一式を整理しながら俺はつぶやいた。「やれやれ、、、今日も結局、恋の後始末まで俺の仕事か」。
傍らでサトウさんが、少しだけ口角を上げたように見えた。見間違いかもしれないが、それだけで今日一日、報われた気がした。