登記簿にいない男
朝のコーヒーがまだ熱いままのうちに、玄関のチャイムが鳴った。依頼人だろうか、少し早すぎる。時計はまだ午前8時45分。9時きっかりを待たないのは珍しい。
俺が玄関に出ると、スーツ姿の中年男性が立っていた。口数は少なく、静かに申請書類を差し出した。事務的な態度だったが、どこかぎこちなさを感じた。
朝一番の依頼人
「登記名義変更をお願いします」と彼は言った。提出された書類は一見問題なさそうだが、どことなく既視感があった。こういうケース、嫌な予感がする。
「ご本人確認書類はお持ちですか?」そう尋ねると、彼は黙って免許証を差し出した。写真と実物は、正直いって一致していないように見えた。
見間違いか、それとも整形でもしたのか、、、いや、そんな問題じゃない。
妙な違和感とコーヒーの香り
サトウさんが奥から出てきて、一瞥しただけで小さく眉をひそめた。コーヒーを机に置いたまま、何かの書類を検索し始める。
「この人、登記官庁のデータベースに名前ありませんでしたよね? 確か先月、別件で調べました」
まさか、同姓同名という落ちではないだろうか。しかしその可能性にしては、提出された筆跡が妙に一致している。
申請書に記された謎の名前
申請書にある「山田良一」という名義人。確かに、過去に別の案件で登場した名前だった。だが、その時の依頼人は確か70代の老人だったはず。
今回来た男は、どう見ても40代前半。親子か? それにしては委任状も無いし、説明が足りなさすぎる。
「これ、どなたの依頼ですか?」と尋ねると、「自分のものです」と即答された。まるで想定されたセリフのようだった。
確認不能な連絡先
書類に書かれている電話番号にかけてみたが、「この番号は現在使われておりません」というアナウンスが流れる。
サトウさんが静かに一言。「捨て番号かもしれませんね。あるいは、書類を偽造した可能性も」
俺の脳裏に、昔読んだ『怪盗キッド』の一幕が浮かぶ。姿を変え、身分を偽り、人々を翻弄する、、、そんな人物像が重なっていった。
「存在しない人間」の登記申請
提出された申請書の下に、前回事件で扱った登記事項証明書のコピーをそっと添えてみると、決定的な違和感に気づく。
日付が逆転している。つまり、古い書類の方が新しい様式を使っているというあり得ない状況だった。
「やれやれ、、、また厄介な依頼に当たっちまったな」ため息をつきながら、俺は机の上のハンコに目をやった。
サトウさんの冷静な分析
「これ、印影がコピーですね。朱肉の滲みがないですし、印面の縁も潰れてません」
サトウさんはPCに向かい、法務省の過去の公告記録を検索していた。もはや俺より調査力がある。
「この名前、過去に何度も変更されてる。不自然なほど頻繁に」
過去の登記との不自然な符合
登記記録には、名義変更が3年のうちに5回も行われていた。しかも、その都度違う司法書士を通している。
「これ、もしかして、、、土地ころがし?」
俺がつぶやくと、サトウさんが即答する。「というより、名義の幽霊化です。名前だけで取引を回してる」
旧姓と筆跡の奇妙な関係
筆跡を比較すると、現在の申請書と3年前の記録は完全に一致した。同一人物による署名だ。
だが、名前が違う。姓も名も変わっている。「戸籍、いじってるかもな」と俺。
過去の戸籍を取り寄せる必要がある。だが、偽装されている可能性も高い。
かつての名義人の弟を名乗る男
数日後、別の人物が事務所を訪れた。なんと「先日来たのは兄です、すみません。代わりに手続きを、、、」
俺はすかさず訊いた。「で、その兄さん、今どこに?」
男は沈黙した。そこに嘘があると確信するには、十分すぎる間だった。
登記官との密談
法務局の登記官にこっそり相談した。「ああ、あの名義、今年に入ってすでに三件目です」
登記官も内心疑っていたが、明確な証拠がなかったらしい。俺は過去の提出書類の控えを借り受けた。
そこに記された朱肉の印影が、すべて同一人物による捺印であることを裏付けていた。
全ては相続をめぐる偽装
最終的に判明したのは、兄を装った弟が、死亡した兄の名義で不正登記を繰り返していたという事実。
しかも死亡届が出されておらず、公的には「生きていることになっていた」ため、見過ごされていた。
「死人が財産を動かしてたってわけか、、、」俺は呆れて笑った。
証拠は朱肉の下に
俺たちが証拠として提出したのは、登記書類の印影の一致、過去の筆跡、そして虚偽記載された委任状。
警察も動き、男は「兄の遺産を守りたかっただけ」と供述したが、法は情に流されない。
やがて男は詐欺未遂で逮捕され、登記は抹消された。
静かに終わる夜の報告書
夜、報告書を書き終えると、サトウさんが呟いた。「朱肉って、嘘も真実も押し固めますね」
「お、うまいこと言うな。座布団一枚だ」俺が冗談を返すと、「いりません」と返された。
やれやれ、、、この事務所でボケるのも命がけだ。
シンドウ、再び野球グローブを握る
週末、久しぶりに草野球の試合に呼ばれた。サードの守備位置に立ち、昔を思い出す。
事件解決の爽快感と、汗をかく気持ちよさが重なり、なんだか少しだけ人生がマシに思えた。
「ミスしたらまた登記簿に名前消えるぞー!」という野次に笑いながら、「それはこっちの台詞だ」と返した。