登記簿に映った影
その日、午後の風はやけに湿っていた。書類の山に囲まれていた俺の机に、一人の中年女性が現れたのはちょうどその時だった。地味な服装と伏し目がちな態度のわりに、彼女の指先は異様に震えていたのを覚えている。
「この土地の登記簿を調べてほしいんです」と彼女は小さな声で言った。「夫が亡くなる前、なぜか名義が変わっていたようなんです」——よくある相談だったが、その日だけは妙に胸騒ぎがした。
ある依頼人の沈黙
依頼人の名は田所美代。提出された資料には平成14年に夫が土地を取得した記録がある。しかし、登記簿を確認すると、直近の名義人は見知らぬ男のものになっていた。「夫はそんな話、一切していませんでした」と彼女は唇をかんだ。
俺はファイルを閉じ、「わかりました。こちらで一度、履歴をさかのぼって調べてみましょう」と返したが、頭の中には一つの疑問が残った。「この変更、どうして今まで誰も気づかなかったんだ?」と。
不自然な登記変更の理由
法務局で過去の登記記録を閲覧してみると、問題の土地は令和元年に所有権移転登記がされていた。しかも、その理由は「贈与」。だが贈与契約書は登記原因証明情報として提出されておらず、変則的な添付書類ばかりが並んでいた。
俺は隣の机で作業していたサトウさんに声をかけた。「サトウさん、これ……なんか不自然じゃない?」サトウさんは眼鏡を上げもせず「不自然ですね」と一言だけ返した。まったく感情の起伏がない。
消えた前所有者の謎
前の所有者、つまり依頼人の夫・田所仁の名は、現在の登記には影も形もなかった。彼の死去の直前、どこかで名義がすり替えられている。だが、法的に押さえるものが少ない。移転の登記申請書に添付された印鑑証明書も偽造かもしれない。
俺は「これ、もしかして……例のアレか?」とサトウさんに尋ねると、「アレとは?」と即答された。昔の怪盗アニメでよくある「死ぬ直前に財産をだまし取る計画」みたいなやつだ。説明する俺に、サトウさんは「それはフィクションです」と冷ややかだった。
サトウさんの冷静な分析
しかし彼女の分析は確かだった。「この登記、元の書式と微妙にフォントが違います。市販の登記ソフトで打った可能性がありますね」「つまり……誰かが作った偽の委任状を提出したってことか?」
「可能性は高いです。しかも代理申請の記録は、司法書士の名前が飛んでます。職印も見当たりません」まるでミステリー漫画の助手役のように、次々と矛盾点を指摘してくるサトウさん。……やれやれ、俺は完全に読み負けてるじゃないか。
昔の取引と今の真実
調べを進めるうちに、田所仁がかつて「借金のカタ」に土地を差し出す契約をしていた可能性が出てきた。だがそれが実際に履行されたかは不明。彼の死亡後、突然その「契約の証拠」だけが登記申請に使われた形になっていた。
まるで時を超えた契約書が勝手に登記簿に効力を持ったような不可解な状況だった。そんなこと、実際にはあり得ない——いや、書類が揃っていれば法務局は原則受理してしまう。登記制度の盲点だった。
やけに慌てる相手方の代理人
登記申請の代理人として名前が記録されていたのは、地元の無名司法書士だった。だが連絡を取ろうとしても事務所は電話がつながらない。ようやく捕まえたとき、彼はやけに怯えていた。
「その登記……僕は書類を持ち込まれただけで……内容は確認してなくて……」あまりに初歩的なミス。もしくは確信犯。「誰に依頼されたか覚えてますか?」と聞くと、彼は青い顔で一人の男の名を挙げた。
隠された共同名義の記録
浮上したのは、田所仁の弟、田所清。昔から兄弟仲が悪く、遺産相続を巡って揉めると噂されていた。しかも登記簿の過去閲覧履歴には、彼の代理人名があった。登記前に土地の情報をチェックしていたのだ。
さらに、十年前の仮登記記録が浮上した。共同名義にしたはずの記録が何故か消えている。おそらく仮登記の権利を悪用して、死後の本登記にすり替えたのだ。これは、意図的な「影」の演出だった。
元所有者の意外な過去
田所仁が遺した日記が、倉庫の片隅から見つかった。そこには「弟には騙されたくない。登記のことはシンドウに頼もうと思っている」と書かれていた。俺の名が記されていたのだ。
だが依頼は来なかった。おそらく清がそれを妨害したのだ。俺に相談されたら、こんな登記は通らなかったからな。
錯綜する証言と登記記録
地元の不動産業者も「なんかあの兄弟、昔から揉めてたよ」と証言した。だが、証拠として提出できるものではなかった。登記簿という「事実」を覆すには、もっと決定的なものが要る。
俺は、日記の原本と、印鑑証明の偽造痕を立証するため、鑑定を依頼することにした。それが功を奏し、ようやく法務局は再調査を開始することになった。
意外な目撃者が語ったこと
決め手は、隣家に住む老女の証言だった。「登記のための書類? あの子(清)が書かせてたよ。兄さんが具合悪いときに、勝手に書類出して……」。録音を取った。それを法務局に添えた。
それが決定打となり、登記は職権で抹消された。清は書類偽造の容疑で事情聴取を受けた。やれやれ、、、ようやくここまで来たかと、俺は冷えたコーヒーを飲み干した。
動機は一通の登記嘱託書
清が偽造に使ったのは、かつて父から兄に送られた委任状の写しだった。それを改ざんし、日付を変えて「兄の意思」と見せかけていたのだ。兄の死を機に、すべてを自分のものにしようとした。
その執着心の深さは、まるで某有名探偵漫画の犯人の動機そのものだった。「金よりも、家の名前を守るため」と清は語ったが、それがどれだけ多くのものを傷つけたか、理解していなかった。
犯人が語った動機と涙
調書の中で、清は涙を流しながら語った。「兄貴は何でも一人で決めるから……悔しかった」その感情は理解できなくもなかったが、登記簿は感情を記録するものではない。事実だけが積み重なる。
俺は静かに立ち上がり、サトウさんに「報告書、まとめといて」と頼んだ。「もうとっくに終わってます」と、無感情に返ってくる。まったく、この人は機械か。
サトウさんの冷たい一言
「今回も活躍できましたね、ギリギリですけど」その一言に、俺は何も言い返せなかった。事務所の中に静寂が流れ、俺は椅子に深く腰掛けた。
「やれやれ、、、次は何が起こるんだか」そうつぶやいた声は、誰にも届かなかった。
事件が残した登記簿の傷跡
田所美代には、土地の権利が正式に戻された。だが、登記簿には一度書かれた「影」が残り続ける。その履歴をたどれば、いずれ誰かがまた疑問を抱くだろう。
俺の仕事は、そんな「影」を見逃さないことだ。今日もまた、古びた登記簿とにらめっこする毎日が始まる。
司法書士としてのけじめ
登記は紙の記録にすぎない。だが、その裏には人の人生がある。司法書士はその記録を守る最後の番人だ。俺はそう信じている。
やれやれ、、、もう少し肩の力を抜きたいもんだな。とりあえず、コーヒーを淹れ直すか。