朝の来客
朝一番、玄関のチャイムが鳴った。予定にはなかった来客に、嫌な予感しかしない。応対に出たサトウさんの声が、いつもより半音低く感じたのは気のせいだろうか。
「すみません、先日お願いした申請書の件で……」現れたのは数日前に登記の依頼をしてきた若い男性だった。顔に焦りが滲んでいる。
「出していない、とはどういうことでしょうか」彼の問いに、私は言葉を詰まらせた。
申請書が見つからないという相談
事務所内の書類棚を何度確認しても、依頼された申請書が見当たらなかった。控えもデータも、なぜかその案件だけがごっそり抜けている。
「提出したはずなんですが……」男の視線が、私の背中を貫くように突き刺さる。どうにも、こちらのミスだと思われているらしい。
だが、私の記憶ではその書類は確かに作成し、封をして準備したはずだったのだ。
忙しさの中の違和感
ここのところ、事務所はてんてこ舞いだった。相続案件が立て続けに入り、睡眠不足が続いていたのも確かだ。
しかし、それを差し引いても何かがおかしい。あの申請書をどこにしまったのか、いや、そもそも提出したのか……。
自分のうっかりが、どれほど致命的か、元野球部の感覚でいえば満塁ホームラン級だ。
二日前の記憶が曖昧
申請書を封筒に入れたのは覚えている。しかし、ポストに投函したか、持って出たかがどうにも思い出せない。カツオが宿題をやったとウソをついて母親に叱られる場面が脳裏をよぎる。
「またか……」自分のことながら情けない。このままでは、依頼者の信頼を失うどころか、業務上の過失にもなりかねない。
やれやれ、、、困ったことになった。
サトウさんの冷静な観察
「机の上に封筒はありましたよ、確か赤いライン入りのやつ」サトウさんが言った。記憶力に関しては、彼女はAIレベルだ。
赤いラインの封筒、それは申請書を入れるときに私がこだわって使っているものだ。つまり、確かにあったのだ、机の上に。
問題は、それがその後どうなったのかということだった。
机の上の配置に矛盾がある
サトウさんは、机の上の配置がいつもと違っていたことに気づいていた。封筒があった位置に、なぜか普段使わない印鑑ケースが置かれていたのだという。
しかもその日だけ、ゴミ箱が不自然なほど満杯だったというのだ。これは偶然なのか、それとも誰かが意図的に書類を処分したのか。
その場にいたのは、私とサトウさん、そして昨日短時間だけ立ち寄った別の依頼人だけだ。
登記申請の行方
法務局に確認を取ったが、やはりその申請は出されていなかった。データベースにも記録は残っていない。
まるで最初から、存在していなかったかのような扱いだった。そんな馬鹿な。私はあの封筒を確かに準備したのだ。
サトウさんも、その存在を視認している。となれば、それは物理的にどこかに移動された、あるいは消されたということになる。
出したはずのものが出ていない
郵便受けの投函記録はない。監視カメラにもそれらしき映像は映っていない。だが、私が使っているスマホのスケジュールアプリには、「申請書提出済み」と記されていた。
つまり、私は提出したと“思い込んでいた”のだ。もしくは、誰かが私のスマホを操作して記録を書き換えた……?
現実味は薄いが、可能性としては否定できない。
申請人の不可解な行動
あの若い男性依頼人が、書類の提出状況をわざわざ確認しに来たのも妙だった。提出していないかもしれないという不安を、なぜ彼は持っていたのだろうか。
通常なら、登記完了通知が来るまで待つはずだ。にもかかわらず、彼は慌てて事務所に現れた。
彼が申請書の処分に関与していたとしたら、それは何のために?
もう一人の依頼者の影
調査を進めるうちに、その申請人が他の司法書士にも同様の依頼をしていたことが判明した。二重依頼である。
つまり、どちらかに手続きミスが起きれば、もう片方を責めることができる。責任転嫁のトリックか?
これはもう、単なる紛失ではなく、計画された犯行の匂いがしてきた。
破棄された封筒の謎
サトウさんが、ゴミ箱の底から封筒の断片を見つけた。赤いラインの、それは私が使っていたものと一致する。
しかもシュレッダーにかけられていた。中身の紙は不自然に切り刻まれていて、再構成は困難だが、宛名部分だけは読み取れた。
依頼人の名前だった。
シュレッダーの中の断片
すぐにゴミ回収業者に連絡し、可能な限り残りの断片を回収。数時間かけて並べていくと、確かにそれは申請書だった。
だが、決定的なのは、その書類に依頼人の署名がなかったことだった。つまり、申請としては未完のままだった。
ならば、それを隠滅しても問題ないと考えた人間がいる、ということか。
管理システムのログを確認
サトウさんが事務所のPCログを確認したところ、封筒の内容を印刷した時刻と、その直後にPDFデータを削除した記録があった。
操作したのは、他でもない——依頼人本人だった。
一時的に席を外していた私の隙を突いて、USBメモリからアクセスし、自らの申請をなかったことにしたのだ。
データの空白時間
監視カメラはデータ保存の不具合で、その時間帯だけ記録がなかった。まるで狙ったかのように。
「怪盗キッドも顔負けですね」サトウさんの口から、そんな例えが出るとは思わなかった。
私は感心よりも先に、額の汗を拭った。
やれやれという一言
「まさか司法書士の事務所で、こんな手品を見せられるとはな……やれやれ、、、」
自分の鈍さを棚に上げるつもりはないが、今回ばかりは相手が一枚上手だったというしかない。
ただ、証拠は残した。そして、それがすべてを語っている。
意外な人物の関与
依頼人は別の債務を隠すために、登記を遅らせる必要があったらしい。だからこそ、書類が未完のままになっていた。
それを悟られぬよう、全ての痕跡を消そうとしたのだ。だが、完璧なトリックほど、どこかに綻びがある。
その綻びを拾うのが、我々司法書士の仕事だ。
最後に浮かんだ一つの真実
今回の件で、私は二つのことを学んだ。ひとつは、封筒の色も記憶のうちということ。もうひとつは、塩対応の部下ほど頼りになる、ということだ。
事件は解決したが、書類の山は減っていない。むしろ増えている気がする。
サトウさんは、淡々とファイルを整理しながら、いつも通りの一言を投げてきた。
無駄な感情は処理済みです
「今回のことは、記録しました。無駄な感情は処理済みです」そう言い放って、キーボードを叩く彼女。
……少しは労ってくれてもいいじゃないか、とは口には出せなかった。
「ほら、次の相続の相談、入ってますよ」冷たい声が、現実に引き戻した。
解決後の静けさ
事件が終わっても、日常は続いていく。コナンのように次の事件を追いかけるヒマはない。
私の仕事は、日々の申請書類を一枚ずつ、確実に処理していくことだ。
それが、誰かの未来につながることもある。
いつも通りの夕方
事務所の外では、蝉がやかましく鳴いていた。扇風機の音が、いつもより心地よく感じる。
今日も何とか、終わった。明日もまた、始まる。
机の隅には、新しい赤ラインの封筒が、静かに置かれていた。
小さな違和感を拾う仕事
大きな事件ではない。新聞にも載らない。だけど、こういう小さな違和感を拾っていくのが、我々司法書士のもう一つの役目なのかもしれない。
人の書類には、書かれていない真実がある。その行間を読むことこそが、仕事の本質なのだ。
今日もまた、赤い封筒が語りかけてくる。