ある依頼から始まった午前十時
夏の盛りのある日、事務所にひとつの封筒が届いた。差出人は見知らぬ名前だったが、内容は「登記識別情報通知の再発行」についての相談だった。封筒の中には、明らかに素人が作ったような委任状と、古びたコピーが数枚だけ。
「またかよ……」と呟きながらも、俺は机の端にそれを置いた。こういうのは、案外ややこしい案件に育つのだ。
郵便で届いた謎の登記識別情報通知
通知書の写しは、五年前に発行されたものだった。だが、その物件の名義人と今回の依頼人の名前が微妙に違う。字面は似ているが、異なる人間の可能性もある。漢字一文字の違いが命取りになる世界だ。
「宛名を間違えた郵便屋さんじゃあるまいし……」そうぼやきながら、俺はキーボードに向かった。登記簿の情報を確認し、全体像を掴む作業に入る。
空き家の登記に潜む違和感
該当する物件は、地方の山あいにある空き家だった。五年前に登記名義が変更された形跡はあるものの、その後一度も取引も移転もない。不自然な静けさが気になった。まるで、誰かが時間を止めたような印象だった。
「これ、あれですよね。ドラマとかで遺産狙って勝手に登記変えちゃうやつ」 サトウさんがコーヒーを差し出しながら、眉ひとつ動かさずに言った。
サトウさんの冷静な分析
俺の机に並ぶ書類を見て、彼女は一言「これ、筆界をまたいでません?」とつぶやいた。言われてみれば、隣の土地の筆界とギリギリ重なるかもしれない。急ぎ法務局で地図を取り寄せる手配をした。
彼女の分析はいつもながら的確で、俺の心の中の「うっすら不安」をしっかり言語化してくれる。まるで名探偵の助手みたいな存在だ。俺は、、、ワトソン以下かもしれない。
同一筆界に別人の名義
取得した公図と現況図を照合すると、なんとその空き家が二筆にまたがって建っていた。そして一方の筆には、今回の依頼人とは別の名前が記されていた。しかもその登記は更新されていないまま。
つまり、現在の状態は「二人の名義人が一つの家を持っている」という極めて微妙な状況。まるでサザエさん家に、ノリスケさんとマスオさんが同時に家主として住んでいるようなもんだ。
登記簿の空白に隠された意図
調べれば調べるほど、五年前の所有権移転の記録が曖昧だった。司法書士の職印はあるが、添付書類が不完全。所有者の住所変更登記も抜けている。誰かがわざと「途中で止めた」形跡があった。
意図的に登記を半端にして、外からは分かりにくいように細工されている。これは偶然ではない。むしろ誰かが「意図を隠すために」選んだ方法だ。
現地調査という名の小旅行
重い腰を上げて、俺はサトウさんとともに車でその空き家を目指した。途中、田舎の道に迷い、昭和の香り漂う売店で道を聞いた。おばあさんの笑顔に癒されたが、それも束の間だった。
到着した現場は、思った以上に荒れていた。人の気配は皆無。蜘蛛の巣があちこちに張られていて、玄関の前で一礼する気にもなれなかった。
雑草の奥にあった一通の封筒
裏庭で、何気なく草を払ったサトウさんが「これ」と言って差し出したのは、雨に濡れたビニール袋だった。その中に、茶封筒が一通入っていた。中身は手紙と、古い契約書の写し。
手紙は達筆な筆文字で「万が一のために、ここに遺す」とだけ書かれていた。誰かが真実を伝えようとした痕跡。俺たちはそれを手がかりに、最後のパズルを埋めることになった。
昭和の名残と平成の影
契約書の日付は昭和末期。相続登記がされず放置され、やがて平成の終わりにようやく動いた……かに見せかけて、実際には名義を操作した何者かが介入していた。ある種の地面師的な動きがそこにはあった。
ただ、やり口は素人臭く、プロの仕事とは思えない。きっと身内で争いがあり、誰かが先に手を出してしまったのだろう。
謎の委任状と実印の不一致
封筒の中にあった委任状の印鑑は、登録されている印影と違っていた。依頼人が提出した委任状も同様。つまり、誰かが勝手に代理人を装って登記手続きをしていたということになる。
本来なら登記官が気づくべきところだが、五年前の担当はもう退職済みだったらしい。穴を突かれた形だ。
法務局に眠る資料の罠
法務局にて調査を重ねる中、偶然見つけた一枚の覚書が決定打となった。それは、所有者本人が「登記を保留にしてくれ」と依頼していた記録。つまり、所有者は名義変更を拒んでいた。
なのに、名義変更がされていた。誰が? いつ? その謎の鍵は、別の人物の委任状の中にあった。
昔の取引に潜む証人の言葉
近所の古道具屋の店主が、思い出したように話してくれた。「あの家はなあ、息子と揉めててな、持ち主が出ていったんだよ」その息子こそ、今回の依頼人と同姓同名だった。
つまり、息子が父親の名を騙り、無理やり名義変更をしていた可能性が高い。サトウさんの目が鋭くなった。
隣人の証言が語る意外な接点
さらに驚いたのは、隣人の話だ。「あの息子さん、五年前に事故で亡くなったはずだよ」その時期はちょうど登記変更の時期と一致する。死人の名を使っていたのか?それとも……
話は急展開し、我々は再度法務局に戻ることになった。
決定的な証拠は登記簿自身にあった
過去の閉鎖登記簿の中に、かすれた一文が記録されていた。「所有権移転仮登記取消」その仮登記の申請人は、なんと別の第三者だった。真の黒幕は別にいたのだ。
依頼人は、その人物の手先にすぎなかった。俺たちはそれを告げるため、再び書面を整え直した。
やれやれと言いつつ走る午後五時
「シンドウさん、これ、明日までに再登記の準備しないと間に合いませんよ」 「やれやれ、、、こんな日に限って野球中継もあるってのに」 俺はそうぼやきながら、打ちかけた電話をまた取った。
誰かが放った嘘の登記を、正すのが俺たちの仕事。時には地味だが、確実に真実を掘り起こす。探偵のように。
真相と法の境界線
結局、すべての書類を揃えて、正当な名義人への復帰登記が完了した。真実を明らかにしても、争いは残るが、それでも少し前に進んだ気がした。
法は冷たいが、登記簿は嘘をつかない。そこに空白がある限り、俺たちはそれを埋めるだけだ。
すべてが終わったあとの静けさ
事務所に戻った俺は、ふうっと息を吐いた。サトウさんはすでにタイムカードを押して、帰り支度をしていた。
「サトウさん、今日は……ありがとうな」 「え、なんか今さら感ありますけど」 塩対応はいつものことだが、ちょっとだけ、背中がやさしく見えた。