印影の行方

印影の行方

第一章 朝の印鑑証明書

印鑑が一つ足りない

八月の朝は湿気と書類にまみれている。ファイルボックスに入った登記関係書類を見直していると、印鑑証明書が一通だけ足りないことに気づいた。
買主のものはある。代理人の分もある。だが、肝心の売主本人の証明書が、どこを探しても見当たらないのだ。
「これは……昨日も確かに確認したはずなんだけどな」と、老眼鏡を外したまま自問自答していた。

サトウさんの冷静な一言

「たぶん、最初から入ってませんね」
サトウさんが事務所の奥から無慈悲に言い放つ。まるでサザエさんのカツオを𠮟るフネのような口調だった。
「うっかりしてるのは、たぶん私じゃなくて、売主のほうですよ」とさらに塩を塗るように追い打ちをかける。

第二章 書類の不一致

申請人の署名に違和感

その日、他の案件の書類をチェックしていたとき、ふと別の違和感が脳裏をかすめた。
「この署名……この前のと微妙に違うな」
前回の登記のときの署名と筆跡が、どことなく似ているが微妙に異なる。それが気になって仕方がなかった。

登記申請の直前トラブル

その違和感を胸に、登記申請の直前、また別の案件で依頼人からの電話が鳴った。
「すいません、父の印鑑証明の件で……出した覚えがないんですが」
こっちは出したと言われていたが、まさかの発言に一瞬頭が真っ白になる。やれやれ、、、今日も波乱の予感しかしない。

第三章 連続する奇妙な依頼

同じ苗字の依頼人たち

ここ数週間、立て続けに来ていた依頼人の苗字がすべて「ナカムラ」だったことに、ようやく気づいた。
しかも、全員が別人のようでありながら、共通してどこか曖昧な雰囲気をまとっていた。
本当に別人なのか、それとも――何かのトリックなのか。

担当者の記憶違いか

登記簿を調べてみると、登記原因や委任状の形式が微妙に似通っている。
まるで同じひな形を使い回しているようにも見えるが、手口が雑ではない。
「うーん、これは探偵漫画で言えば『怪盗K』クラスの手際だな……」と、つぶやいてから自分で恥ずかしくなった。

第四章 過去の登記との照合

数年前の書類から浮かぶ印影

事務所の古いファイルをひっくり返していると、四年前の売買登記の控えが出てきた。
「おいおい、これ……同じ印影じゃないか?」
まさかと思いながら、虫眼鏡を手にじっと見比べたが、どう見ても一致している。それなのに、依頼人の名前はまったくの別人だった。

登記簿の記録が語るもの

登記簿を丹念に読み返すと、あるパターンが浮かび上がってくる。
“相続”と“売買”を絶妙に織り交ぜながら、名義が流れるように変わっているのだ。
司法書士ならではの視点でしか見抜けない小細工が施されていた。

第五章 サトウさんの推理

登記の流れに潜む罠

「たぶん、偽造じゃないですね。捨て印と空白を利用した“合法っぽい”手口です」
サトウさんがスキャンしたPDFを拡大しながら冷静に分析する。
「しかも、印鑑は使い回してます。委任状と同じ印影が、3件分重複してます」
それはつまり――誰かが、確信犯でやっているということだ。

印鑑の真贋を見抜く

念のため印鑑証明書も区役所に確認してみたが、複数の証明書の発行記録が、まるで存在していない。
つまり、印影だけが使われていたというわけだ。
「誰かが、過去の委任状から印影を切り取って使っている」――これは、ただのミスではない。

第六章 司法書士の矜持

騙されたふりをする決断

僕はあえて、次の依頼に応じることにした。
「うち、こういう案件は断らないんです」と笑顔で言って、サトウさんに白い目で見られる。
だが、この依頼の先に、確実に“黒”がいると確信していた。

仕掛けた罠と現れた真犯人

依頼人に偽の手順書を渡し、あえて記入漏れを残しておいた。
すると数日後、差し替えられた新しい委任状が郵送されてきたが、そこに押された印鑑が――まったく同じ位置、同じ傾きだった。
印鑑の押し方には“クセ”がある。これは間違いなく、一人の人間が複数人になりすましていた証拠だ。

第七章 印鑑の行方とその代償

悪用された信頼の重み

今回の件は、警察にも連携し、結局、元銀行員という男が印鑑と書類を使い回して土地転売を繰り返していたことが明らかになった。
我々司法書士が関わる「信頼」の重さを、改めて感じさせられる事件だった。
「ああ、胃が痛い……。でも、これも仕事なんだよな」と、僕は遠い目をした。

やれやれの結末と一人の背中

「やれやれ、、、やっと終わったな」
とつぶやいた僕の背中に、サトウさんはそっとファイルを差し出す。
「明日も9時から決済ですよ。忘れないでくださいね」
サザエさんがエンディングで波に飲まれる気分で、僕はまた一歩、現場へと足を踏み出すのだった。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓