依頼人が遺した最後の言葉
梅雨の重たい雲が事務所の窓を曇らせていた朝、一人の老婦人が入口に立っていた。杖をつきながらも背筋の伸びたその姿は、気品と決意を帯びていた。
「亡くなった主人の登記をお願いしたいんです。でも、何かがおかしいんです……」そう言って差し出されたのは、一通の登記簿謄本と、古びた鍵だった。
目を通した瞬間、何かが引っかかった。間違いではないが、正しさも感じられない。記録にしか語れない、冷たい何かが潜んでいた。
土砂降りの朝に現れた老婦人
彼女の名前は深川。その名を聞いたとき、どこかで聞いたことがあるような気がした。相続案件でよくある名字だが、妙に印象に残る声だった。
「この家、空き家だったはずなのに……。先月、夜に明かりがついていたんです」と語る彼女の目には、確かな不安と過去への疑念が浮かんでいた。
記憶の片隅に残る不動産広告が頭をよぎった。確か、この家は三年前に売却されたはずだった。だとすれば、なぜ今、彼女がこの家の鍵を?
登記簿に隠された一行の文字
不動産の登記簿を見ると、確かに夫の名前で所有権が残っていた。ただし、最後の登記変更が平成の時代で止まっている。
さらに不審だったのは備考欄に記された「一部相続登記手続中」の文字。この表現は通常使われない。誰かが意図的に残した痕跡なのか。
「これは、、、未遂か、偽装か」サトウさんが唸る。やれやれ、、、また書類に踊らされる羽目になりそうだ。
亡き夫が遺した二つの家
調査を進めると、被相続人である夫には二つの不動産があった。一つは依頼された家、もう一つは隣市の小さなアパートだった。
どちらも登記簿上は夫名義のまま。しかし、現地調査の結果、アパートは別の人物が管理していた。契約書も、鍵も、電気の名義も。
サザエさんのマスオさんがもし生きていたら、こんな時に「エェーッ!」と叫ぶだろう。だが今、叫びたいのはこちらの方だ。
名義変更に潜む不自然な動き
過去の登記履歴を洗ってみると、ある年に一度だけ法務局から登記原因証明情報の提出を求められていた形跡があった。
その日付が、夫の死亡日とぴたり一致する。まるで誰かが急いで手続きを止めたような印象だ。だが記録は途中で終わっていた。
サトウさんが一言。「これ、未遂の名義変更ですね。たぶん偽造書類を使おうとして、途中で何かがあって止めたんでしょう」
サトウさんの睨んだタイムスタンプ
提出されたPDFファイルのタイムスタンプは、奇妙な時間を記録していた。深夜2時。通常の業務ではあり得ない。
しかもその日、依頼人の長男が自宅のWi-Fiを使用していたという記録が残っていた。司法書士が確認したわけではないが、端末のIPが一致する。
つまり、何者かが遺産を我が物にしようと画策していた。それも、正式な手続きを装って。動機は金ではない。もっと深い闇だ。
相続人たちの静かな争い
家族会議を開くよう依頼人に提案したところ、長男と次男が揃って事務所に現れた。どちらも柔和な顔立ちだが、目の奥に剣が見える。
長男は「父の意思を尊重したいだけです」と言い、次男は「すべて母の判断に従います」と言った。だが本音はどこにあるのか。
この静かな攻防に、何かを語らない前提があると感じた。まるで皆が、家の中の“何か”に触れてはいけないと知っているように。
遺言書と登記簿の矛盾
老婦人が持参した公正証書遺言には、家は次男に譲ると記されていた。だが登記は未変更で、その原因たる書類も提出されていなかった。
「もしこれを隠していたとしたら……遺産隠しというより、むしろ名義を巡る身内の駆け引きかもしれません」と私は呟いた。
書類の裏には見えない思惑がある。文字だけでは語れない感情が、ここには残っている。
地方銀行が握る真実
登記簿では見えなかったが、銀行の記録から見えたのは、住宅ローンの返済が数年前から不規則になっていたという事実だった。
つまり、誰かがこの家に未練を抱いていた。利息だけ払っているような返済形態は、形式だけの所有を意味する。
「お金じゃない、形なんだな」そう呟いたサトウさんは、窓の外の雨をじっと見ていた。
住宅ローンの返済履歴
振込人名義は次男だった。しかしローン契約者は故人であり、正式な引き継ぎはなされていなかった。つまり、これは善意の継続か、悪意の隠蔽か。
調査を進めるうちに、次男が事実婚の女性と同居していることが分かった。しかもその女性が、司法書士事務所に勤めていた過去がある。
伏線が一つずつ繋がっていく。やれやれ、、、こちとらマンガの探偵じゃないんだが。
空き家だったはずの家に灯り
地元の自治会長の証言によると、「ここ数か月、夜になると灯りがついてたよ」とのことだった。
郵便物の溜まり具合、ポストの開閉頻度、防犯カメラの映像。どれも一致しないが、だからこそ見えてくる。
「誰かが夜だけ滞在してた……逃げ場として」それは、登記簿が記す以上の“現実”だった。
近所の証言が覆す前提
「この前も若い男が入ってったわよ。30代後半くらい?」と語ったのは隣家の主婦。写真を見せると、「この人だった」と長男を指差した。
だが長男はその日、仕事で県外にいたと主張していた。GPS記録を調べると、なんと事務所近くのコンビニに立ち寄った形跡が出てきた。
嘘が嘘を呼び、事実は一つずつ姿を現す。その過程が、やけに面倒くさくてたまらない。
最後の登記とその代償
法務局に正式な登記申請があったのは、事件発覚の数日後だった。提出者は老婦人自身。書類には、次男への贈与として処理されていた。
「あの子は、全部分かっていたんです。でも、父親の過去だけは守りたかった」彼女の声は、雨音にかき消されそうだった。
登記簿は嘘をつかない。だが、すべてを語ってくれるわけでもない。私は静かに印鑑を押した。
シンドウが一人事務所に戻る夜
雨は上がり、雲の切れ間からわずかに月が覗いていた。事務所に戻ると、サトウさんは既に帰った後だった。
机の上には、温かい缶コーヒーと「やるじゃないですか、元野球部」のメモ。やれやれ、、、たまには誉められるのも悪くない。
明日もまた誰かの過去と向き合う。静かに、記録と、記憶の狭間で。