事務所に届いた一本の電話
午後四時。外は雨がしとしとと降り続いていた。静かな事務所に響く電話のベルに、僕は書類の束から顔を上げた。
受話器を取ると、低くかすれた女性の声が「相続登記をお願いしたい」と言った。それだけならいつものことだったのだが……。
「昔、お世話になったシンドウ先生なら信じられると思いまして」と続けたその言葉に、胸の奥が妙にざわついた。
声の主はかつての依頼人
名前を聞いて、僕は思わず椅子から立ち上がった。「高梨ユキエ」――十年前、父親の遺産相続を巡って苦い記憶が残る依頼人だった。
電話の向こうのユキエは、兄が急死したこと、そしてその兄の不自然な遺言書の存在を語った。
「兄の死、どうしても納得できないんです」その言葉には、ただの相続ではない何かが滲んでいた。
不自然な相続登記の依頼
翌日届いた資料には、確かに違和感があった。亡くなった兄・高梨カズオの名義だった土地が、突然ユキエ一人に遺贈されていた。
法定相続人であるもう一人の妹・アケミの名が一切出てこないのだ。にもかかわらず、アケミは存在していないかのように処理されていた。
「あれ、ちょっと変ですね」とサトウさんが言ったのは、その登記簿の甲区欄を見たときだった。
謄本に記された違和感
「この住所、前の住所と微妙に違うんですよ。町名が旧表記になってる」
確かに、そこには平成十年に変更された町名が、変更前のままで記載されていた。まるで、何かを隠すために旧情報を使ったかのように。
僕の背中に冷たいものが走る。登記簿は嘘をつかない。だが、それを操作する人間は嘘をつく。
サトウさんの冷静な分析
「先生、もしかするとアケミさん、存在しないんじゃないですか?」サトウさんが真顔で言った。
「存在しない? いや、ユキエさんがそう言ってた。妹がもう一人いたけど、疎遠で連絡も取れないって」
「だったら、それが嘘かもしれませんね」まるで名探偵コナンの蘭姉ちゃんみたいな顔で、サトウさんはノートに何かを書きつけていた。
相続人の一人が存在しない
戸籍を調べると、確かに「アケミ」の存在は確認できなかった。なのに、十年前の遺言書の中にはその名があったのだ。
「つまり十年前に捏造された架空の相続人……?」僕は目を細めた。
「あり得ますね。遺産を分散させないために作られた存在です。架空の妹アケミ……名前がまたベタですよ」サトウさんが鼻で笑った。
遺言書に残された不可解な一文
手元の遺言書を見返す。筆跡は震えており、まるで急かされるように書かれた印象があった。
そして最後の一文――「この願いを託せるのは、ただ一人、私の妹アケミのみ」
存在しない人物に全財産を託す? そんな馬鹿な話があるか。
銀行印が違うという指摘
「この印影、先生の過去のデータと違いますよ」サトウさんが印影照合ソフトを使って調べた。
カズオの印影が、五年前の取引と明らかに異なっていたのだ。押された日付は死の直前。つまり、生前の本人のものではない可能性がある。
「やれやれ、、、まるで金田一少年の事件簿だな……」僕は頭をかきながら、嘘の上塗りを許した現実に胃が痛くなってきた。
過去の事件との奇妙な一致
調査を進めるうちに、十年前にカズオが関わった土地取引が見えてきた。そこにも登記ミスとされる疑惑があった。
不動産業者が登記をやり直したという記録。しかしその業者はすでに倒産していた。
偶然にしては出来すぎている。まるで何かを覆い隠すような連続性があった。
十年前の登記取消訴訟
調べると、カズオは十年前、土地売買を巡って訴訟を起こされていた。結果は和解だったが、関係者の一人が急死していた。
「偶然死んだ人間が、今度は相続でまた出てくる。これは……」
「一つの線で繋がってるってことですね」とサトウさん。彼女の瞳は鋭く光っていた。
地元の法務局での調査
車を飛ばして地元の法務局へ。登記官の中年男性は、最初は警戒していたが、事情を話すと重い口を開いた。
「あのときもな、似たような名前の人物が同日に申請されてて……でも書類が完璧でね」
彼が差し出した控えの写しには、例の架空人物「アケミ」の名が記載されていた。
登記官の記憶に残る男
「一緒に来た司法書士が妙に若かったのを覚えてる。君みたいに疲れてなかったよ」
半分冗談のような言い方に苦笑いしながら、僕はその若い司法書士の顔写真を見せてもらった。
そこには――かつて同業者として懇意にしていた男が写っていた。今はどこにいるのかも分からない彼が。
暗躍する司法書士仲間の影
彼の名前は川井。三年前に事務所を畳んだと聞いていたが、実は水面下で偽装登記に関わっていた形跡があった。
「先生、これ……川井の印鑑ですよね」サトウさんが差し出した資料に押された職印は、確かに彼のものだった。
だが、それは三年前に廃止されたはずの旧印だった。
偽装された職印の正体
廃印を使って偽造登記をする――それは完全な違法行為だ。
「つまり、川井はどこかでこのシステムを使い続けている。印影だけならデータでも残せるからな……」
登記簿の裏にある深い闇。そしてそれに利用される制度の盲点に、僕は怒りを覚えた。
サトウさんの大胆な推理
「先生、こう考えられませんか? ユキエさんもグルなんじゃないかと」
「え?」まさかと思ったが、サトウさんは冷静だった。
「存在しない相続人を作って、いったんその人間に遺産を渡し、その後失踪したことにすれば、完全にユキエのものになる」
その筋書きは、あまりに綿密だった。
本物の相続人は誰なのか
戸籍をさらに洗うと、なんと高梨家にはもう一人、腹違いの弟がいたことが判明した。
彼は幼少期に施設へ預けられ、そのまま戸籍上では所在不明とされていた。
その彼こそが、本来の相続人。だが彼の名は、遺言書にも登記簿にも一切出てこなかった。
真相に近づく一通の書留
事件を整理し、警察にも報告を始めようかというとき、一通の書留が届いた。
差出人は……川井だった。「全てを明かすつもりだ。だが俺だけが罰を受けるのは違う」と書かれていた。
彼の告白が、全ての嘘を白日の下に晒すことになる。
古びた手紙が語る真実
手紙には、彼が偽装を請け負った理由や、ユキエとの関係、そして過去の事件の顛末が記されていた。
結局ユキエは主犯で、川井はその指示に従った形だった。
罪の意識に苛まれた川井は、自ら真実を告白しに出頭したという。
解決とその代償
ユキエは逮捕され、偽装登記の一連の事件は地元ニュースで大きく取り上げられた。
川井は司法書士法違反で起訴されたが、その供述により闇の一端が明るみに出たのも事実だ。
「やれやれ、、、どこまでが人を信用していいのか、わからなくなるな」
僕はそっと、湯気の立つコーヒーに口をつけた。