午前九時の司法書士事務所
朝の事務所は静かだった。エアコンの音とコピー機の起動音だけが空間を満たしている。私、シンドウはというと、昨日の酒が少し残る頭で申請書類をぼんやり眺めていた。
「シンドウ先生、来客です」サトウさんの冷たい声がドア越しに聞こえた。月曜の朝に限って、なぜか面倒な依頼が舞い込む。サザエさんのじゃんけんが負けた日のように、今週も波乱の予感がする。
月曜朝の来客はろくなことがない
やってきたのは年配の女性だった。彼女は小さな紙袋から、一枚の訂正申請書を取り出し、「亡くなった兄の名義をほんの少しだけ修正したいんです」と言った。
たしかに、内容は「所有者の氏名の漢字表記を簡略な字体に変更するだけ」という一見して問題のない依頼だった。だが、直感がどこか引っかかった。
サトウさんの冷たい指摘
「この訂正、ちょっと変です」サトウさんが書類を指差した。「この字、前の登記簿だと常用漢字じゃなくて旧字体で通してるんですよね」
まるで名探偵コナンの灰原哀みたいな鋭い目で、彼女は淡々と違和感を告げる。私はふと、訂正の背後に何か別の意図があるのではと考え始めた。
軽微な変更という依頼
申請書をもう一度見直す。たしかに書式も完璧、添付書類も整っている。だが、修正前の名前と修正後の名前には、よく見なければ気づかない細かい違いがあった。
「これ、兄って言ってたけど……同一人物じゃない可能性もあるかもしれませんね」サトウさんがつぶやいた。私は内心「そこまで言う?」と思いつつ、念のため過去の登記簿謄本を取り寄せることにした。
訂正申請書に隠された違和感
数時間後に届いた謄本には、十年前に亡くなった別人の記録が残っていた。その人物の筆跡と、今回の申請書に添えられた遺言書の署名が、明らかに一致していない。
司法書士としては決定的な判断材料にはならない。が、これは限りなく黒に近い灰色だ。ちょっとルパン三世っぽく言うと、「やることは派手じゃねぇが、痕跡は残さねぇ」タイプの犯行かもしれない。
登記簿の片隅に残る前の痕跡
その登記簿の一番端に、古い修正履歴が残っていた。私はそこに書かれた修正理由を見て、違和感の正体に気づいた。「相続人の追加により所有権移転」――つまり、今回の依頼者は、以前の訂正で得をした側だった。
「やれやれ、、、」と私はつぶやく。結局、正義は細かい文字の中にしか住んでいないのか。酒も抜けぬまま、頭は妙に冴え渡っていた。
亡き依頼人の真意
私は依頼者に電話をかけた。「この訂正、もう少し詳しい事情を教えていただけませんか?」
女性の声は揺れていた。「……本当は、兄じゃないんです。兄のふりをしていた人の名義なんです」
不動産名義変更とその目的
実は亡くなったのは本当の兄ではなく、戸籍を買って成りすましていた別人だった。女はその正体に気づいていたが、黙っていた。そして今になって、静かに過去を消そうとしていたのだ。
その動機が「罪悪感」なのか「財産狙い」なのかは語られなかった。ただ、訂正申請書は無言のうちに、ある殺意をにおわせていた。
過去のトラブルが甦る
登記官時代の知人から聞いたことがある。「訂正申請は、罪のない顔をして過去を変える一番合法的な手段だ」と。確かに今回も、それを利用しようとしたのだろう。
司法書士の私たちは、そんな修正の“文面の裏”を読み取る必要があるのだと痛感した。
やれやれの午後三時
コーヒーを淹れて、ため息をつく。見れば、サトウさんはもう次の書類に取りかかっている。やれやれ、、、まったく。
私も椅子を立ち、訂正申請は却下という判断を報告するFAXを送信した。相続は感情と法律が交差する場所だ。そこに軽さなどない。
元野球部の勘が働いた瞬間
ふと、あの違和感に最初に気づいた瞬間を思い出す。あれは直感ではなく、きっと経験の積み重ねだった。スコアブックの細かいエラーを読み解いてきたあの頃と、何も変わらない。
司法書士って、意外と野球に似てる。油断した瞬間にエラーを拾いそこねる。
ひとつのハンコが語る真実
遺言書に押された印影が、なによりも雄弁に語っていた。そこに刻まれていたのは、本人ではなく“偽者”の名。
軽微な訂正とは名ばかりで、真実はその裏側に沈んでいたのだ。
静かなる動機の証明
今回の事件は立件されることもなく、申請は却下されたまま闇に沈んだ。だが、私は一つの真実を知ってしまった。誰も罰せられず、誰も救われない。
だがそれもまた、司法のひとつの形かもしれない。
申請書類はすでに語っていた
文字の修正、行間の余白、押印の位置。全てが静かに語っていた。これは、誰かが消したかった過去だと。
「記録」には、どんな言い訳も通用しない。紙はいつでも正直なのだ。
サトウさんの読みと私の推理
「先生、やっぱり訂正申請って危ないですね」サトウさんが言った。私は「だから先に言っただろ」と言いかけてやめた。
彼女の冷静な目と、私のうっかりした鼻が、今日もひとつの嘘をあぶり出した。それだけで十分だ。
司法書士が告げる答え
書類だけでは判断できない。だが、書類がないと始まらない。それがこの仕事の厄介なところだ。
私は依頼者に断りの電話を入れた。「今回はお力になれません。理由は、書面には書けませんが」
軽微な変更が導いた結末
人は過去を変えられない。でも、過去を書き換えようとする者はいつもいる。今回はその未遂だっただけだ。
次は未遂で終わらないかもしれない。だからこそ、私たち司法書士の目は油断できない。
静かに消されたもう一つの名前
訂正申請書には、消された旧字体の名前が薄く浮かんでいた。それはまるで、誰かの魂が最後の抵抗をしているようだった。
私はそっとその名前を見送り、申請書を封筒に戻した。
その後の事務所日常
午後五時、ようやく静けさが戻った。窓の外では蝉が鳴いていた。今年も暑い夏になりそうだ。
「先生、ハンコのインク補充してください。かすれてます」サトウさんの声が背後から飛んできた。
サトウさんのいつもの塩対応
私は言い訳しようとしたが、やめた。「はいはい、今やります」と答えるのが精いっぱいだった。
彼女の背中を見ながら、やれやれ、、、と思った。
そして今日も書類と格闘
司法書士の一日が終わる。だがまた明日、新しい書類と、新しい嘘がやってくる。
私は机の上のファイルをそっと開いた。記録を守るのが私の仕事だ。たとえ、それが誰かの殺意の片棒を担ぐことになったとしても。