事務所を辞めたいと思った日

静かな朝に「もう辞めたい」と思った

まだ電話も鳴っていない朝、事務所のデスクに座った瞬間、「今日はもう帰りたい」と思ったことがある。こういう日がたまにあるのではなく、ほぼ毎日そう思うようになっていたのだから、これはもうかなり末期だったのかもしれない。自分が決めた道なのに、何かがおかしい。疲れが取れないまま朝を迎えると、まるで自分が“壊れかけの機械”のように感じる。司法書士という仕事が嫌いなわけじゃない。でも「もう無理だ」と思ってしまう日があるのも、また事実だ。

電話のベルが鳴る前に、心が折れていた

何もしていないのに疲れている。今日の予定を確認するだけで心がざわつく。そういう日は、電話のベルが鳴るのが怖い。誰かの相談が、自分にとっては命を削る作業に変わる。業務の負担そのものよりも、「対応しなければならない」という義務感が心を圧迫するのだ。司法書士として当然の責任ではある。でも、人としてのキャパシティには限界がある。ギリギリで立っている自分に、誰も気づかないし、自分でも気づかないふりをしてしまう。

たった一件の相談が、なぜこんなに重いのか

普段なら流れ作業でこなせる案件が、ある日突然、全く進まなくなる。書類を見るだけで頭が痛い。相手の言葉がうまく入ってこない。心が拒否しているのだ。事務員からの「これお願いできますか？」という一言にも、心がささくれ立つ。そんな自分が嫌で仕方ない。たった一件の相談に、なぜここまでエネルギーを奪われるのか。答えは簡単で、「もう余裕がない」からだ。キャパオーバーの状態で“いつも通り”を求められると、人は壊れてしまう。

「あの件どうなってます？」に震える日々

一番怖いのは、あの一言だ。「あの件、進捗どうなってます？」。クライアントに悪気はない。それは分かっている。でも、こちらとしては「言われる前にやろうとしていたのに」と、なぜか被害者意識が湧いてしまう。実際はそうでも、ないかもしれない。ただ、心がすり減っていると、あらゆる言葉が刃物のように刺さる。仕事の進捗が滞っている自分に対しても、自己嫌悪が強まるだけ。「できない自分」を責めながら、また一日が終わる。

missing value——欠けているのは自分の人生かもしれない

データにおける「missing value（欠損値）」は、何かが本来そこにあるはずなのに、存在しない状態を意味する。自分の人生に当てはめるなら、それは「やりがい」や「納得感」かもしれない。司法書士として人の役に立つ仕事をしている。それなのに、自分の心にはぽっかりと穴が空いているような感覚がある。表面的にはうまく回っている。でも、どこか根本的な何かが欠けている。それに気づいたのが、「事務所を辞めたい」と思ったあの日だった。

書類の不備じゃない、“何か”がいつも抜け落ちている

登記申請書類をチェックしていて、「あ、ここ抜けてるな」と気づくことがある。そういう時、「自分も今、何かが抜けてるな」と思うことが増えた。休みの日に休めない。人と話していても心がここにない。笑っても、作り笑いになっている。仕事はやっているけど、どこか“魂”がこもっていない。そういう“欠け”に、自分自身が一番気づいているのだ。それなのに、修正も補完もできずに、見て見ぬふりをして、今日もまた机に向かってしまう。

自分の感情を置き去りにしたプロ意識の代償

司法書士としてプロである以上、感情を仕事に持ち込んではいけない。そう思ってずっとやってきた。でも、プロ意識の皮をかぶったまま、自分の気持ちを放置し続けてきた結果、心が完全に置き去りになっていた。泣きたいと思っても涙が出ない。笑いたくても心が動かない。それでも「期限を守る」「業務を終える」ことだけには妙に忠実でいる自分がいる。感情のmissing valueは、いつか取り返しのつかない大きな欠落になる。それが一番怖いのだ。

たった一人の事務員とのギクシャクした関係

ありがたいことに、事務所には一人事務員がいてくれている。正直、彼女がいなければ今の業務は回っていない。でも、こちらも余裕がないときは、ついピリピリしてしまう。相手が悪いわけじゃない。むしろ、自分のふがいなさや不安を隠すために、つい相手に当たってしまう。それがまた自己嫌悪につながる。孤独な職場において、唯一の同僚との関係が悪くなれば、もう逃げ場はないのだ。

「この忙しさを理解してくれ」と思う自分の傲慢さ

「こっちの大変さを分かってくれよ」と思ってしまうときがある。でもそれって、ただの傲慢だ。自分だけが苦しいわけじゃない。事務員だって、こちらの気分に振り回されて、きっとつらい思いをしている。だけど、言葉にして謝るのは、何故かとても難しい。自分の器の小ささが情けなくなる。でも、その情けなさも、正直な“今の自分”なのだ。

報われない夜食と冷めた味噌汁

夜遅く、事務所で一人カップ麺をすすることがある。ふと窓の外を見ると、もう街は静まり返っている。「何やってんだろうな、俺……」とつぶやく声が自分の中から漏れる。コンビニで買ってきた弁当の味は、仕事の虚しさをより一層引き立てる。頑張っているつもりなのに、報われていない気がしてならない。こういう夜が続くと、「もう辞めようかな」という思いがリアルに顔を出す。

一人事務所の帰り道に待っているのは沈黙だけ

誰もいない道を歩く。仕事のメールはまだ鳴っているけど、見る気力もない。部屋に帰れば真っ暗で、電気をつけるのも面倒になる。テレビもつけず、冷たい味噌汁だけを飲んで寝る準備をする。こんな生活を、いつまで続けるのか。結婚もしていない。子どももいない。孤独は慣れたはずなのに、心はいつまでも順応してくれない。司法書士という“立場”だけが残って、自分という人間がどこかに行ってしまった気がしてくる。

なぜか“感謝”が胸に響かない

クライアントからの「本当に助かりました」という言葉。以前はそれだけで「頑張ってよかった」と思えた。でも今は、ただ“聞いているだけ”になってしまっている。感謝されているはずなのに、何かが届かない。心のバッテリーが切れているときは、どんな言葉もスルーされてしまうのかもしれない。感謝に反応できない自分が、また嫌になる。悪循環の中で、気力も希望も少しずつ減っていく。

ありがとうと言われても、虚しさが勝つ瞬間

本当に感謝してくれているのはわかる。でも、その「ありがとう」が自分の中で響かない。「この先、いつまでこんな働き方をするんだろう」という不安が頭をよぎると、嬉しさよりも、むしろ虚しさの方が勝ってしまう。感謝に心が動かないというのは、ある意味、危険信号だ。だからといって、すぐに変えられるものでもない。むしろ、この“心が動かない状態”と、どう付き合っていくかの方が難しい問題だと感じる。