封じられた告白
朝のメールと冷えたお茶
司法書士事務所の朝は静かだった。エアコンの風音と、電気ポットの沸騰音だけが小さく響いていた。ぼんやりとパソコン画面を眺めていると、サトウさんが黙って机にお茶を置いていった。
遺言書の訂正をめぐる依頼
依頼人は、亡くなった兄の遺言書に不備があったと言い、再検認と登記の修正を求めてきた。訂正部分に違和感があり、遺産の配分にも不自然な偏りがあった。ぼくは一応受けたが、正直なところ気が重かった。
笑わない姪と四十九日の準備
被相続人の姪は終始無表情で、遺言書の件にも口を挟まず、淡々と事務的な質問だけをしていた。「祖父の意志通りにしてください」とだけ言い残し、静かに帰っていった。まるで何かを諦めているようだった。
消えた書きかけの手紙
兄の部屋を片付けていたという妹が、一枚の封筒を持参した。中は空だった。「中身が入ってた気がするんだけど…」と言うが、封筒に破かれた痕跡はない。書きかけだったのか、誰かが抜き取ったのか。
書類の余白に残る違和感
公正証書遺言の控えを再確認していて、あるページの余白に薄い跡を見つけた。誰かが書いたものを消したような、鉛筆の微細な跡。光を当てて角度を変えると、うっすら「すき」という字が浮かび上がった。
サトウさんの疑問
「普通、遺言書にそんな言葉、書きますかね」とサトウさんが言った。「公正証書じゃなくて、自筆証書を途中まで書いてたとかじゃ?」冷静な彼女の言葉に、ぼくは少しだけ背筋が伸びた気がした。
封筒の糊付けは誰の手か
その封筒、糊付けが不自然に波打っていた。しかも封を切った形跡もない。つまり、中身は入れられずに閉じられたのではなく、誰かが中身だけをすり替えた可能性がある。封筒は、誰かの意志で「空」にされたのだ。
書き換えられた登記原因
法務局に提出された登記原因証明情報には、手書きの修正が加えられていた。だが、訂正印が妙に新しかった。インクのにじみが他の筆跡と合わない。ぼくは古い書類フォルダをひっくり返し、元の原本を探し始めた。
愛を綴らなかった理由
元の手書きメモには、「すきです」と書かれた後に数行分の余白があり、そこで筆が止まっていた。恐らく、彼は書こうとした。だが、法的な書類にはふさわしくないと感じて、書けなかったのだろう。
誰のための遺言だったのか
結局、遺言の不備は妹ではなく、姪にとって有利になるよう書き換えられていた。だがその変更は兄本人の意志ではなかった。妹が、姪の将来を案じて手を加えたのだと、ぼくは確信した。だが証拠はない。
やれやれ、、、思い込みは罪深い
「好きだったんだろうなあ、あの子のこと」とぼくがつぶやくと、サトウさんが「それを証明できないのが司法書士のつらいところですね」と鼻で笑った。やれやれ、、、思い込みだけでは登記はできない。
最後に渡された一通の便箋
数日後、姪がぼくを訪ねてきた。黙って一通の便箋を差し出す。「本当はこれを渡すべきだったんです」と。そこには、震えた筆跡で「すきです」とだけ書かれていた。遺言とは別に、たったそれだけが残っていた。
好きですと書かれていたのは
その文字は、たしかに兄の字だった。便箋は茶色く変色しており、少なくとも数年は時を経ている。「わたし、気づいてたんです。でも、それが迷惑になると思って、渡せなかったんです」と姪は涙をこらえた。
登記簿には記されない真実
その手紙は登記にも記録にも残らない。だが、ぼくの記憶の中には確かに刻まれた。人が遺せる本当のものは、言葉ではなく、言葉にならなかった想いなのかもしれない。サトウさんは、黙って茶を入れ直してくれた。