仕事がない日の不安はなぜこんなに重いのか
平日は書類に追われ、電話が鳴りっぱなしで、次々とやってくる案件に対処するだけで一日が終わる。それなのに、土曜日の朝に目覚めた瞬間、「ああ今日、やることないな」と気づいたとき、胸の奥に妙な不安が押し寄せてくる。予定がないこと自体が悪いわけじゃないのに、ぽっかり空いた時間に、ふと自分の存在が薄れていくような感覚になることがある。休めるはずの日に、心はまったく休まらない。そんな矛盾を感じるたび、心のどこかで「休日って、こんなに怖かったっけ?」と自問するようになった。
平日は忙しいのに休日になると心がざわつく
平日は時間が勝手に過ぎていく。登記の締切、依頼者からの連絡、役所まわり…息をつく暇もないのが当たり前になっている。だからこそ、休みの日にぽっかり空白ができると、自分の価値が失われたような錯覚に陥る。何もしていない自分に、なんとも言えない焦燥感や罪悪感が押し寄せてくる。朝から晩まで仕事があれば、「忙しくて大変だ」と愚痴もこぼせる。でも、予定のない休日にはその“愚痴すらない”のがまた寂しい。気がつけば、休みが来るたびに「今日も孤独な一日が始まる」と思ってしまう自分がいる。
静まり返る事務所が妙に寂しい
休日の事務所は静かすぎて、まるで別の空間のように感じることがある。普段の喧騒が嘘みたいに、空気が止まっている。事務員も当然休みで、がらんとした室内に一人で立つと、「ここで何をすればいいんだろう」とすら思う。書類も片付いているし、電話も鳴らない。テレビの音でも流そうかと迷うけど、それすら虚しい。静けさって、心が疲れているときほど、やたらと存在感を持ってしまう。まるで、「お前、今日何もないんだぞ」と責められているような感覚だ。
予定が入っていないカレンダーを見るのがつらい
デスクの横に掛けてあるカレンダー。びっしりと書き込まれている平日の予定とは裏腹に、週末だけはいつも真っ白だ。昔はそれが嬉しかったはずなのに、今では空白のスペースを見るたびに、どこか気が重くなる。「また誰にも誘われなかったな」「出かける相手もいないしな」と、つい考えてしまう。最近はその空白を見るのが嫌で、カレンダーをめくるのも億劫になってきた。なんでこんなに自分を責めてしまうのか、わからない。でも、予定のない休日が、こんなにも“社会から取り残された感じ”を与えるものだとは思わなかった。
気づけば自分だけ取り残されているような感覚
昔はそれなりに充実していたはずの土日。だけど今は、その時間をどう過ごせばいいか分からなくなっている。休日にSNSを開けば、家族で出かけた投稿や友人同士の飲み会の写真が目に入る。「いいな」と思いながら、どこかで「自分だけが止まっている」ように感じてしまう。仕事ではそれなりに頼られているのに、プライベートでは誰にも必要とされていない、そんな落差が心に刺さる。土日が来るたび、取り残されたような孤独感に包まれて、ますます人と会うのが億劫になる…悪循環だ。
友人は家庭持ち後輩は成長自分だけが停滞
大学時代の友人は、もう家を建て、子どもの運動会の話をしている。後輩たちは「司法書士法人を立ち上げました」なんて投稿をしている。そんな中、自分はひとりで小さな事務所を回して、日々の業務に追われるばかり。それも立派なことだとわかってはいる。だけど、進んでいるようで足踏みしているような、そんな気持ちが抜けない。人と比べてばかりではいけないけれど、休日の空白時間は、どうしても“比較”を始めてしまう心のスキマを広げてしまう。
かつての野球仲間との距離
学生時代、汗と泥にまみれて一緒に戦った野球部の仲間たち。卒業後もたまに集まって草野球をしていたけれど、今は誰からも声がかからなくなった。いや、誘われたとしても「仕事があるから」と断り続けてきたのは自分だ。気がつけば、自分だけがバットもグローブも押し入れにしまったまま、再び取り出すきっかけもない。あの頃の仲間との距離が、時間と共に少しずつ、しかし確実に遠ざかっている。そんな現実が、休日にふと心にのしかかってくる。
グループLINEの通知がもう鳴らない
野球部のグループLINE、昔は誰かが何かしら投稿していたけど、今や未読ゼロ。通知が鳴らないことに、ホッとする反面、寂しさもある。自分がそこに“いない人間”になってしまった気がするのだ。コメントをしても誰も返してこないのではという不安が先立ち、既読スルーが怖くて何も言えなくなった。そのうちに、グループの存在そのものを忘れたふりをするようになった。つながりが絶えたのではなく、自分で断ったのだという事実が、休日の孤独をさらに重くする。
それでもまた月曜を迎えてしまう自分へ
休日が怖くても、時間は止まってくれない。気がつけばまた月曜が来て、また忙しい一週間が始まる。そして、その慌ただしさの中で、先週の孤独を忘れていく。こうして心の中の問題を先延ばしにして、自分をごまかしながら生きていくのかもしれない。だけど、もう少しだけ、立ち止まって考えてみたい。本当に自分が望む休日のあり方とは何なのか。何が足りないのか。そして、何を少し足していけるのか。完全でなくていい。ただ、自分の心が「ちょっと楽になった」と思える休日を、少しずつでも作っていきたい。
小さな予定でもいいから自分を迎えに行く
派手な予定じゃなくてもいい。近所の喫茶店でモーニングを食べる、古本屋をのぞいてみる、少し遠くのスーパーまで足を延ばす。そんな些細な予定を自分のために用意しておくと、「何もない休日」に怯えずに済む。誰かと過ごす時間もいいけれど、まずは自分と過ごす時間を丁寧に扱ってみたい。自分を迎えに行くように、ゆっくりと、予定を差し込んでいく。心が少しでも動けば、それが一歩になると信じている。
誰かと会う予定がなくても構わない
「休日=誰かと一緒に過ごすべき」という思い込みは、案外しんどい。誰とも会わない日があってもいい。むしろ、自分とじっくり向き合う時間として、その日を大切にすることもできる。無理に充実させようとしなくても、自分のペースで、自分の感情に寄り添えば、それでいい。心が休まる時間というのは、誰かに見せるものではなく、自分の内側にしか存在しない。そう思えるようになったとき、休日が少しだけ優しくなる気がする。
自分にとって心地よい休日とは何か
「理想の休日」なんてものは、人によってまるで違う。SNSのような他人のモデルケースに惑わされず、自分にとって何が心地よいのか、問い直してみたい。寝ることが休息なら堂々と寝ればいい。散歩が癒しなら、歩けばいい。人に評価される休日ではなく、自分が満たされる休日。それを一つひとつ、自分の中で定義していく作業を、もう逃げずに始めていこう。いつか、休みを怖がらない自分に出会える日が来ると信じて。