優しい言葉が、なぜか胸に刺さる日
人からかけられる優しい言葉に、なぜか心がざわついてしまう日がある。そんな日は決まって、仕事がうまくいっていなかったり、頭の中で反省会が終わらなかったりする日だ。誰かの親切や気遣いが、ありがたいどころか、こちらの弱さや不甲斐なさを突きつけてくるように感じる。きっと、受け取る側の心が疲れ切っているんだろう。それでも、相手にとっては善意の言葉なのだから、そんなふうに感じてしまう自分が嫌になってしまう。
「頑張ってるね」と言われるたび、つらくなる
ある日、登記の締切に追われながら、クライアントから「先生、いつも頑張ってますね」と言われた。思わず「いえいえ」と笑ったけれど、その言葉がしばらく胸に刺さったままだった。実は前日の夜、申請書の不備を見逃してしまい、管轄法務局から電話で注意を受けたばかりだった。頑張ってる“つもり”だっただけで、実際は空回りばかり。それを見透かされているようで、嬉しいどころか情けなくなった。
努力してないわけじゃない、でも報われた気がしない
朝から晩まで書類に追われ、土日も事務所でPCに向かう日々。それでも、手続きミスがあれば全てが帳消しになる世界。だから「頑張ってる」と言われても、「じゃあ何が残ったんだ?」という思いがこみ上げる。努力はしている。だけど、それが実績になっている実感がない。数字に出るわけでもなく、誰かが認めてくれるわけでもない。「自分は今、何のために働いてるんだろう」と考えると、ますます空しくなる。
誰のために頑張っているのか、ふとわからなくなる
開業当初は、「依頼者の役に立ちたい」と思っていた。でも今はどうだろう。日々の案件に追われ、業務効率ばかり気にしている自分がいる。依頼者の笑顔や感謝の言葉さえ、何だか遠い世界のことのようだ。気がつけば「この業務、納期いつだっけ」としか考えていない。いつの間にか、志を忘れて「処理屋」になっていたのかもしれない。そんな自分に、「頑張ってますね」は皮肉のように響いてしまう。
「無理しないでね」が逆にプレッシャーになる理由
仕事が立て込んでいるとき、周囲から「無理しないでね」と言われると、どう返せばいいのかわからなくなる。本当に無理している最中なのに、無理をやめたら全部が止まってしまう。だからこそ、「無理しないで」が「それでも結果は出してね」と聞こえてしまうのだ。自分がひねくれているのかもしれない。でも、仕事を抱えている人間にとって「休んでいいよ」は、結局「休むな」と同義に思える。
無理をしているから、やれている仕事もある
無理してなかったら、この業界で独立してやっていくなんて無理だった。朝も早いし、夜も遅い。緊急案件の対応で深夜に法務局のサイトとにらめっこすることだって珍しくない。無理が積み重なって、ようやく今の事務所の形がある。そんな中で「無理しないで」と言われても、「じゃあ何を削ればいいの?」という話になってしまう。家に帰っても誰もいないのだから、仕事をしていた方が気が紛れるという面もある。
「休んでいいよ」に隠れた見えない期待
以前、事務員さんに「先生、たまには休んでください」と言われたことがあった。優しさからの言葉だとわかっている。でも、その直後に「この申請、私が一人で進めてみますね」と言われて、心のどこかで焦った。「俺がいなくても回るんじゃないか」という不安。ありがたい反面、自分の存在意義が薄れていくようで、落ち着かない。休めと言われて、安心して休めるほど、僕は器用じゃない。
司法書士という仕事と、優しさとの距離感
人の人生に関わる場面が多いからこそ、言葉の一つ一つが重く響く仕事だ。だからこそ、優しさに触れる機会も多い。依頼者の感謝の言葉、事務員さんの気遣い、周囲の応援。それらを素直に受け取れたらどれほど楽かと思う。でも現実は、期待に応えきれない自分が情けなくて、優しさが痛みになってしまう。そんな自分がまた嫌で、ひとりでぐるぐると悩んでしまう。
相談者の言葉に励まされながらも、心がしんどい
とある相続案件の依頼者に、「こんなに親身になってもらえるとは思いませんでした」と涙ぐまれたことがある。確かに、時間をかけて一つずつ丁寧に進めた案件だった。心から感謝されたのに、その言葉を聞いた後、僕は思わず深いため息をついていた。「自分にはもったいない言葉だ」と思ってしまったのだ。人からの評価と、自分の自己評価の乖離が大きいほど、そのギャップが心に重くのしかかる。
「先生のおかげです」の重さ
「先生のおかげです」——この言葉は本来、喜ばしいもののはずだ。けれど僕にとっては、過剰なプレッシャーでもある。なにか一つ判断を間違えば、取り返しのつかないことになりかねない職業だ。だからこそ、その言葉を受け取るとき、心から嬉しいと思えなくなっていた。感謝されるほどに、「次こそ失敗できない」と自分を追い詰めてしまうのだ。
感謝されることが、つらいこともある
仕事をする中で、「ありがとう」と言われることは少なくない。だけど、それに心から微笑んで返せた日はいつだっただろう。感謝されるたびに、「もっとできたのでは」「あの判断は最適だったのか」と自問してしまう。人からの温かい言葉に、素直に「どういたしまして」と言えなくなっている自分がいる。その瞬間、僕は「いい司法書士」ではないと感じてしまう。
事務員さんの気遣いに救われる一方で、申し訳なさも
事務員さんがいてくれることは、本当にありがたい。書類の抜けや細かな対応まで丁寧に気を配ってくれる彼女がいるから、何とかやっていけている。でも、そんな彼女の「大丈夫ですよ」の一言に、心がきしむときがある。僕の不手際をカバーしてくれているのに、それを当然と思ってしまいそうな自分が怖いのだ。優しさに甘えきってしまって、情けない気持ちになる。
「大丈夫ですよ」の裏にある思いやりに気づけない
「先生、こっちは大丈夫なので、外回りに行ってください」と言われた日、僕はその言葉に甘えてしまった。でも帰ってきて、彼女が黙々とトラブル対応をしていたのを見たとき、自分が恥ずかしくなった。「大丈夫ですよ」には、僕への思いやりだけでなく、彼女の我慢も含まれていたのだ。優しさの裏にある感情まで、ちゃんと見ないといけない。気づけなかったことが悔しかった。
優しい人と働くほど、自分の至らなさが浮き彫りになる
僕の周りには、優しい人が多い。だからこそ、自分の短気さや粗雑なところが際立ってしまう。事務員さんの丁寧さや、依頼者の穏やかな言葉に触れるたび、自分の未熟さを突きつけられているような気分になる。優しさに囲まれていながら、素直に感謝できない自分に嫌気がさして、ますます孤独を感じてしまうのだ。