共感が苦手になってる

共感が苦手になってる

共感できない自分に気づいた朝

ある朝、ふとした瞬間に気づいてしまった。「あれ、なんか心が動かないな」と。依頼者の不安そうな顔を見ても、「大変ですね」と言葉は出るが、それは完全に自動運転。心の奥底がピクリとも動かない。昔は違ったはずだ。もっと人の痛みに敏感で、涙を見ればこっちも胸がギュッと締めつけられた。今はどうだ。事務員が身内の病気の話をしていても、「そうなんだ」とだけ返している。気づかないふりをしてきたけど、本当はずっと自分の中で壊れていたのかもしれない。

「かわいそう」に心が動かない

以前なら、ニュースで子どもが事件に巻き込まれたと聞けば、一日中気分が沈んだ。でも今は、「ああ、またか」と思ってすぐに別の作業に戻ってしまう。何が変わったんだろう。疲れてるのか、感情がすり減ったのか、それとも…いや、もう麻痺してしまってるんだと思う。

事務員の話にも相槌だけ

うちの事務員が、祖母が倒れたという話をしたときも、「それは大変だったね」と言葉だけは返した。でも心では「明日の登記確認、忘れないようにしないとな」と別のことを考えていた。本人は気づいてないだろうけど、自分は自分の冷たさに気づいてしまってる。しかも、どうにもできない。

昔はもっと感情があった気がする

司法書士になったばかりの頃、依頼者と一緒に泣いたこともあった。相続の話で、遺された手紙を見せられて、思わず目頭が熱くなった。でも今は、どれだけ泣かれても、涙の重さがわからない。ただの事実処理。業務対応。自分の心はいつからこんなふうに冷えたのだろう。

依頼者の涙に冷めた対応しかできない

先日、相続放棄の相談で来た女性が泣き出した。でも正直「またか」と思ってしまった。「泣くなら家で泣いてきてほしい」とさえ。自分の言葉は冷たくなかったと思う。でも心は動いてなかった。こういうとき、本当はどう接すべきなんだろう。まだ答えが出ない。

「そんなことで泣かないでくれ」と思ってしまう

大切な人を亡くした話を聞いても、「そんなの誰でも通る道じゃん」と思ってしまう。もちろん言わないけど、心では突き放してしまっている。人の感情を受け止め続ける仕事をしてきたはずなのに、今はもう「受け止めたくない」が本音になっている。

共感を仕事にしすぎて壊れたかもしれない

自分の中にあった感受性の器みたいなものが、もう擦り切れて空っぽなんじゃないかと思う。毎日毎日、誰かの不安を背負って、それを業務に変えていく。その繰り返しで、自分の感情の置き場所がなくなってしまったのかもしれない。

感情労働の限界点

司法書士という職業は、単なる手続きの専門家ではない。実際には、感情の整理、家族の事情、葛藤の代弁者みたいな役割を背負うことが多い。でも、こっちだって人間だ。ずっと感情を受け止め続けたら、そりゃ限界もくる。仕事をこなせばこなすほど、人間味が削られていく感じがする。

聞きすぎて、受け止めすぎて、空っぽになる

ある意味、職業病だと思う。人の話を真剣に聞きすぎると、だんだん心が自衛し始める。最初は一つひとつの話に心を寄せていたのに、今では「またそのパターンか」と処理するようになってしまった。共感より、分類。人の人生が、頭の中でリスト化されていく。

登記の説明よりも「聞く力」が求められる

法的な説明よりも、どれだけ相手の不安を解消できるかのほうが大事にされる。だから自然と「聞く」ことが仕事の中心になる。でもそれは、「聞くふり」じゃなくて「ちゃんと聞く」だから、疲れる。しかも、聞いたところで自分には何もできないという無力感も、ずっと付きまとう。

でも、誰もこちらの話は聞いてくれない

自分も、どこかで吐き出したい気持ちはある。でも相談される側の自分には、相談できる相手がいない。「大変ですね」と言われることはあっても、本当にこちらの苦労を理解してもらえることは少ない。だから、自分の感情はどんどん内側にしまい込まれていく。

「プロとしての冷静さ」と「人間らしさ」のあいだ

冷静に対応するのがプロ、というのはわかってる。でも、時々思う。「自分はただの無感情マシンになってないか?」って。依頼者の前では冷静を装いながら、心のどこかで人間らしさを忘れてる。バランスを取るのが難しい。

泣いてる人に泣いて返すわけにはいかない

感情的になる依頼者に、こちらが感情的に応じたら話にならない。それはプロとして当然。でもだからといって、無表情で接するのも違う気がする。じゃあどうすればいいのか? 正解がわからないまま、今日もまた「無難な対応」で一日が終わる。

でも、ただの処理マシンにはなりたくない

「次はどの登記?」「この書類チェックして」…と毎日流れ作業。でも本当は、もっと人として向き合いたいと思ってる自分もいる。じゃあ、どうやってその心を取り戻せばいいのか。それが、いまだにわからない。

それでも「ありがとう」が刺さる日がある

そんな冷めきった自分にも、たまに感情が戻る瞬間がある。たとえば、ひと仕事終えて「本当に助かりました、先生」と笑顔で言われたとき。言葉に乗った温度が、心の奥にじんわり届くことがある。それだけで、「まだ大丈夫かも」と思える。

心の奥にまだ残ってる、柔らかい部分

毎日、共感の仮面をかぶっているけれど、本当は自分の中にもまだ「共感したい」という気持ちは残っている。ただ、表に出す余裕がないだけ。時間も、心も、いっぱいいっぱい。でもその柔らかい部分を失ったら、もうこの仕事は続けられない気がする。

一言で涙腺が緩む、そんな日もある

ある依頼者が「先生、これで父も安心して眠れると思います」と言って深く頭を下げた。その瞬間、何かが胸に来て、涙が出そうになった。自分でもびっくりした。でも、そういう瞬間がまだあるなら、自分はまだ壊れてないのかもしれない。

共感を取り戻すのは難しくても、ゼロじゃない

感情は使い切ってなくなるものじゃなく、きっと奥に残ってる。ほこりをかぶってるだけ。それをもう一度見つけて、少しずつでも取り戻していけたら。司法書士としての役割と、人としての自分。その両方を大事にしたい。そう思えるようになった。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。