謎の依頼人が現れた朝
朝のコーヒーを淹れた直後だった。ドアが静かに開き、ベージュのコートを着た若い女性が入ってきた。 第一印象は、あまりにも静かすぎて存在感がなさすぎる、ということだった。 「登記のご相談で」と彼女が口を開いた瞬間、サトウさんが小さくため息をついたのが聞こえた。
サトウさんの無表情な迎え
「どうぞ、おかけください」サトウさんの声は相変わらず機械のように冷静だった。 「内容によっては司法書士のシンドウが直接対応いたします」 俺はそのとき、パソコンの前で謎にエラーを吐くExcelを前に格闘していた。今日もすでに絶望的な一日が始まっていた。
登記を頼みたいのは恋なんです
「恋の登記って……」俺は思わず口を開いた。冗談かと思った。 けれど依頼人の女性は真顔のまま「彼が亡くなったんです。籍も入れていません。だけど、彼の家に私の名前を残したい」 おいおい、それは恋じゃなくて心霊現象レベルだ。俺の頭の中ではすでにサザエさんのエンディングが流れはじめていた。
差し出された一通の遺言書
女性が取り出したのは、皺だらけの便箋三枚分の遺言だった。しかも公証役場の印はなく、日付と署名だけ。 「これは自筆証書遺言ですけど、法的にはちょっと微妙ですね」俺がそう言うと、彼女は頷いた。 「それでも、これがすべてなんです」と彼女は泣きそうな目で言った。
遺言に記された知られざる名
その中には「すべてをユキへ譲る」とあった。ユキ? 登記簿にはその名はない。どうやら亡くなった男の単独名義で登記されていたようだ。 俺は静かにため息をつき、サトウさんを見た。彼女はすでに調査を始めていた。仕事が早い。いや、怖い。
法的効力と感情のあいだ
遺言には効力がある。ただし、それが本当に遺言者の真意に基づくものか、そしてその内容が登記に反映できるかは別の話。 「彼の弟が相続人なんです。だけど彼は、この遺言を認めてくれません」 俺の胃に、じわじわと重い圧がかかってきた。恋と相続は、たいてい相容れない。
古びた登記事項証明書の中の異変
昔の書類を取り寄せて、初めて分かった事実があった。昭和の終わりに一度だけ、所有権が兄弟間で移っていた。 「このときの住所、兄弟で入れ替わってますね」サトウさんが指摘する。 ああ、これは昔からの“すり替え”ってやつだ。まるでルパンが変装で逃げ切るみたいに、地味だけど決定的な罠だ。
所有者欄に消された名前
どう見ても一度、ユキという名前が何らかの形で登記に関与していた形跡がある。 けれど現在の謄本にはその記録は一切ない。 つまりは、誰かが故意に“彼女の存在”を法的に消した、ということだ。
公図には存在しない土地
さらに驚いたのは、家の裏にあった「庭」とされる土地が、公図には載っていなかったことだ。 昔の分筆漏れか、意図的な未登記地か。どちらにしても、司法書士の出番がようやく来たようだ。 「やれやれ、、、仕事の匂いがしてきましたね」俺がぼやくと、サトウさんは無表情のまま小さく頷いた。
シンドウの過去とリンクする記憶
依頼人の名前を改めて見ると、どこかで聞いたことがあった。ユキという名前。 それは高校時代、俺が片想いしていた同級生と同じ名前だった。本人ではない。 けれど、どうしても昔のことが脳裏に蘇ってくる。あのときの告白も、返事すらなかったなあ。
昔好きだった人の名前
机の引き出しに、今でも入っている未送信の手紙を思い出す。 「好きだった」と一言も言えなかった過去。名前を書くことすらできなかった。 それに比べれば、この女性は、よほどまっすぐだった。
法務局で見えた真相の影
法務局の職員が古い記録を引っ張り出してくれた。 そこには一度、ユキ名義で相続申請された形跡があり、その後「抹消」の扱いで消されていた。 誰かが彼女を「法的に排除」したのだ。まるで、存在しなかったことにするように。
故意か過失か 誤記の正体
「これは単なる記載ミスではありませんね」サトウさんが記録を見ながら言った。 そうだ、ここには意図がある。誰かが、彼女を“恋人”ではなく“他人”にしたがっていた。 俺はもう一度、遺言書を見つめた。そこにだけ、彼の真実が残っていた。
サトウさんが突き止めた感情の証拠
「彼、生前に婚姻届を出そうとしてた形跡があります」 戸籍の除票から、彼の未提出の婚姻届の控えが見つかったのだ。 「法務的には無効ですが、気持ち的には一番強い証拠かもしれません」 サトウさんが初めて、人間の表情を浮かべてそう言った。
登記には書けないこともあるんですよ
「登記簿ってのは、書類に現れたことしか証明できない。でもね、人の気持ちは書けないんだ」 俺は依頼人にそう伝えた。 それでも、彼女は涙を浮かべながら「それで十分です」と微笑んだ。
恋と登記と相続の三角関係
相続人である弟には、彼女の存在を記した遺言と未登記地の処理を含め、法的な説明と説得を行った。 時間はかかったが、最終的に彼女が住む家は、彼女の名で登記されることとなった。 名義は変わった。だが一番変わったのは、彼女の目に宿った安堵の色だった。
名前のない関係の結末
「あなたの関係性を登記に残すことはできません。でも、あなたが彼といた証拠はここにあります」 そう言って、俺は遺言書のコピーと一緒に、登記済証の表紙に小さな栞を挟んだ。 登記は事実を記録するだけだが、物語はそれを超えることがある。
やれやれ それでも僕は書類を綴じる
夕方、ようやく仕事が終わった。俺は今日の案件ファイルを棚にしまった。 サトウさんは無言で帰り支度をしている。コートを羽織る姿がやけにサマになっていた。 「やれやれ、、、恋は未登記のままで十分かもな」俺は自分にだけ聞こえる声でそう呟いた。