他人の家族に囲まれて思い出す自分の部屋の静けさ

他人の家族に囲まれて思い出す自分の部屋の静けさ

他人の家族に囲まれて働くということ

司法書士の仕事をしていると、登記や相続、遺言、成年後見…どれも「家族」が中心にある業務ばかりだと気づかされます。書類を整えている最中、隣ではご家族が笑い合っていたり、泣いていたり、手を取り合っていたり。そんな光景に日々接していると、ふとした瞬間に自分の立ち位置を見失いそうになるんです。自分はこの輪の中に入ることはない、ただ手続きを円滑に進めるための裏方でしかない。その事実を突きつけられるたび、事務所に戻った後の静まり返った部屋が余計に沁みます。

祝福の現場で浮かび上がる自分の輪郭

先日、マイホーム購入の登記で若い夫婦が子どもを連れて来所されました。子どもが「ここに住むの?」と聞いて、親が笑いながら「そうだよ」と答える、そのやりとりがあまりに温かくて。僕はその光景を見ながらも、淡々と必要書類を確認していました。笑顔が飛び交う中、自分だけが感情を切り離しているようで、不思議と肩が冷たく感じました。あの「輪」に入ることは一生ないんじゃないか。そう思った瞬間、書類の文字が少しだけ滲みました。

登記申請の先にある「誰かの幸せ」

家を買うって、本来とても大きな人生の節目です。その手続きを支える仕事に関われているのは誇らしい。でもその「幸せの節目」は、常に他人のもので、自分のものではないという感覚が拭えません。どんなにスムーズに処理を進めても、僕のもとには「ありがとう」の言葉だけが残り、家族写真にも写り込むことはありません。ふと「幸せの配達人になって、受け取り人にはなれないな」と、そんな感情がよぎります。

その幸せに自分がいないことへの違和感

仕事を終えて帰宅すると、ただ静かな部屋が待っているだけ。お祝いの笑い声も、子どもの声も、ここには届きません。テレビをつけても、ただの音でしかなくて、誰かと過ごすあたたかさとは別物です。他人の家族を目の当たりにするたび、自分の空白が大きく見える。仕事にやりがいがあっても、心の奥底で「自分はどこか取り残されているのでは」という感覚は、年々重みを増している気がします。

職場には事務員と二人きり

僕の事務所は小さく、スタッフはひとりの事務員さんだけ。年齢も近いけれど、決して馴れ合いになることはなく、一定の距離を保って仕事をしています。気まずくもなく、かといって気楽でもない。その絶妙な空気感が、逆に一層の孤独を際立たせている気がするんです。誰にも愚痴をこぼせず、黙々と書類と向き合う日々。会話が少ないからこそ、頭の中にネガティブな声がこだまする時間も多いんです。

気を遣いすぎて疲れる会話

たとえば、「今日は寒いですね」なんていう日常会話も、気を遣って口にしているような感じがあります。事務員さんが気を悪くしないように、妙に丁寧な言葉を選んだり、無理して明るく振る舞ったり。まるで面接中の会話が永遠に続いているような感覚になります。もっと気楽に話せたらと思う反面、変に距離を縮めすぎて気まずくなるのも怖い。そんな微妙な人間関係のバランスに、いつも神経をすり減らしています。

昼ごはんの時間が唯一の「無音」

昼になると、お互いなんとなく時間をずらしてご飯を食べます。たまにタイミングが重なると、「あっ、どうぞ」と譲り合いが始まり、結局誰かが気を使って席を立ちます。その無言の気配りもまた、疲れの一因。コンビニおにぎりを食べながら、「誰かと並んで何かを食べるって、こんなに難しかったっけ」と、ふと疑問に思います。昼休みの無音が、心の中の静けさを象徴している気がして、ちょっとだけ切なくなります。

独り身にはちょっとしんどいバランス

仕事が終わっても、誰かと飲みに行くこともないし、家族と晩ご飯を囲むわけでもない。ただ淡々と帰路につき、静かな部屋で一日を終えるだけ。事務所と家の往復だけで日々が過ぎていくこの生活に、なんとなく味気なさを感じることが増えました。人と関わっているはずなのに、誰とも繋がっていないような、そんな不思議な感覚に支配されることがあります。これが「独り身の司法書士」という肩書きの重さなのかもしれません。

モテなかった過去と今も変わらない現実

学生時代は野球部で、坊主頭に焼けた肌。汗と泥にまみれてた日々は、それなりに充実していました。でも恋愛だけは、まったく縁がなかった。告白なんて一度もされなかったし、自分からしたってうまくいくはずもなく。そんな経験が積もり積もって、「どうせ俺なんか」が口癖になっていたように思います。気づけばそのまま司法書士になり、40代半ば。気楽ではあるけど、どこか満たされない――そんな日々が続いています。

元野球部のくせに恋愛だけは三振続き

スポーツで鍛えた体も、社会に出ればモテにはつながらず、むしろ堅物扱いされて終わりです。いまだに「彼女は?」と聞かれることがありますが、そのたびに曖昧に笑ってごまかすだけ。どこかで「どうせもう無理」と諦めてる自分がいます。あの頃の無邪気な希望は、仕事と責任に押しつぶされて、気づけば見えなくなっていました。好きだった人の結婚報告がSNSに流れてきた夜、スマホを伏せたまま朝まで眠れなかったこともあります。

同級生のSNSに映る「家族」の写真

今でもたまにFacebookやInstagramで、昔の友人たちの投稿を目にします。子どもと公園で遊ぶ写真、家族で旅行に行った風景、誕生日ケーキの前での集合写真。そんな投稿を見たあと、自分のスマホのアルバムを開くと、書類や物件写真ばかり。人の生活を支えているはずなのに、自分の生活はどこか薄っぺらい。まるでモノクロ写真のように、色が抜けている感覚になるのです。

それでもこの道を選んだ理由

それでも、この仕事を選んだことを後悔しているわけではありません。誰かの節目に立ち会える仕事は、本来とても尊いものです。モテないとか、独り身だとか、そういう感情は確かにあるけれど、それ以上に「役に立てた」という実感が救いになる日もあります。たった一言の「ありがとう」が、空白の夜を少しだけ温めてくれる。だから僕は、明日もこの静かな部屋を出て、誰かの家族のもとへ向かうのです。

同じように頑張る誰かへ伝えたいこと

この文章を読んでいるあなたも、もしかしたら僕と似たような状況かもしれません。孤独を抱えながら、誰かの役に立とうと仕事に向き合っている。そういう人こそ、本当に誇らしいと僕は思います。僕も含めて、「頑張ってるのに報われていない」と感じるすべての人に、少しでも共感と温もりが届けばという思いで、これを書いています。

愚痴が出るのは真面目に向き合ってる証拠

僕は愚痴が多いです。でも、それは真剣にやってる証拠だと最近は思えるようになりました。何も感じなければ愚痴すら出ません。仕事に情熱があるからこそ、不満も悩みも出てくる。そういう葛藤のある毎日こそが、誰かを支える資格をくれているのだと思います。だから、愚痴が出た日は「今日もちゃんと働いた」と、自分を褒めてもいいんじゃないでしょうか。

誰かの役に立っていることを忘れないで

お金のためだけじゃ続かない仕事です。感謝されることも少ないし、スポットライトが当たることもない。でも、そんな日陰の仕事があるからこそ、多くの家族が安心して生活を始められるんです。自分がどれだけ必要とされているか、見えにくいだけで、確実にそこに存在している。その事実を胸に刻んで、今日もまた静かに書類を綴じていきます。

今日も静かな部屋に帰るあなたへ

ひとりで過ごす夜に、何度も「これでいいのか」と思うかもしれません。でも、そんなあなただからこそ、他人の人生に静かに寄り添えるのだと思います。誰も見ていない場所で、誰かの幸せをそっと支える仕事。それは本当にかっこいいことです。今日も一日お疲れ様でした。明日もまた、それぞれの場所で、それぞれの静けさを抱えて生きていきましょう。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。