書類を失くす人、多すぎ問題 = missing value

書類を失くす人、多すぎ問題 = missing value

書類を失くす人、多すぎ問題とは何か

司法書士として日々業務に追われていると、どうしても直面するのが「書類紛失問題」。こちらが何十件もの案件を抱え、確認・整理・提出のサイクルを何度も繰り返している中で、「あの書類、どこにいきました?」と依頼人に尋ねられた時の、なんとも言えない気まずさと腹立たしさ。正直なところ、誰のせいとも言えないケースも多いが、それでも結局、最終的に責任を問われるのはこちら側だ。missing valueという言葉がこれほどリアルに響く現場は他にないかもしれない。

紙文化に縛られる仕事の現実

いまだに「紙が原本」という前提で成り立っているこの業界。電子契約やクラウド管理が進む一方で、登記や相続、遺言といった分野では、いまだに「紙じゃなきゃダメ」という局面が多すぎる。特に地方では、役所側も電子化に消極的で、何かトラブルが起これば「紙を見せてください」で終わり。これはもう文化なのだろう。たとえるなら、スマホが普及しているのに、いまだに公衆電話が町のあちこちに必要とされているようなもの。無駄とは言わないが、現場の手間は増すばかりだ。

電子化なんて夢のまた夢

私の事務所でも、スキャナを導入してPDF化を進めようとした時期があった。だが、そもそも原本提出が求められる手続きでは、PDFでは意味がない。さらに、依頼人の中には「データだと不安」という理由で、わざわざコピーよりも原本の郵送を希望する人もいる。これは完全に感覚の問題だが、私たちはその感覚に付き合わなければならない。結果的に、書類の束は減らず、棚はどんどんパンパンになっていく。物理的スペースも、精神的な余裕も削られていく一方だ。

「原本」信仰と終わらない印鑑文化

書類には印鑑が必要、という文化も根深い。たとえば、委任状に押印をもらうのに何度もやりとりし、ようやく届いたと思ったら印影が不鮮明、あるいは認印だったということもある。そのたびに「訂正印でOKですか?」「実印じゃないとダメですか?」と確認の連続。しかも、紛失されるのはそういう重要書類に限って多い。そうなると、印鑑証明書も取り直し。依頼人にとってはただの一通でも、こちらにとっては地味に精神を削る一撃なのだ。

どこに消えた?あの書類の行方

書類がどこかに消えてしまうというのは、単なる「ミス」ではなく、連鎖的にトラブルを生む引き金だ。たとえば、ある相続手続きの際、依頼人が「送ったはず」と主張した戸籍謄本が、こちらには届いていなかった。郵便事故か、誤って他の資料に紛れたのか、結局わからずじまい。だが、依頼人の側には「送った」という事実がある以上、疑われるのは受け取る側。つまり、こっちである。信用という無形の財産が、一枚の紙で揺らぐのだ。

依頼人の「出したと思ってた」は信用できない

よくあるのが「送ったと思ってた」「出したはず」という言い分。でも現実には、封筒が投函されていなかった、メールが送信されていなかったということがざらにある。ある依頼人は、実際に出していないにも関わらず「ポストに入れた」と断言していた。しかし後日、机の中から未投函の封筒が見つかり平謝り。それでも、その一件で信頼関係は少し揺らいでしまった。小さなことだが、それが積もると業務に対するモチベーションにも影響が出てくる。

ファイルから滑り落ちた紙が運命を左右する

こちら側のミスももちろんある。特に、忙しい時に限って起こる「物理的な紛失」。ファイルから書類が一枚だけ滑り落ち、机の下に入り込んでいた。たったそれだけで手続きが数日ストップし、依頼人への連絡も遅れてしまう。こういう時、「もっとちゃんと確認していれば…」と自責の念に駆られる。だが、物理的に紙を扱っている限り、絶対はない。常に神経をすり減らしながら、目と手で追いかける日々だ。

失くされた書類に人生を振り回される司法書士

書類を失くすのは依頼人でも、面倒を見るのはこちら。そこに「正義」も「納得」もない。とにかく動くしかないのが現実だ。手続きの遅延、余計な再発行、時間の浪費、そして何より精神的な疲労感。気づけば夕方、コーヒーも冷めている。事務員一人だけでは手が回らず、結局自分で動く。あの日失くされた一枚の紙が、まさかこんなにも日々をかき乱す存在になるとは、資格を取ったころには想像もできなかった。

再発行という無限ループ

書類がないとわかれば、再発行を依頼するしかない。役所に出向き、再発行の申請書を書き、印鑑をもらって、数日後にようやく受け取る。簡単そうに見えるこの作業が、何件も重なると地獄のようにしんどい。しかも、依頼人にとっては「お願いしただけ」の感覚なので、労力が伝わらない。こっちが汗をかいても、「ありがとう」すら返ってこない時もある。こんなループ、いったいいつまで続くのかとため息が出る。

役所に行くのは私じゃない、って誰が決めた?

「再発行、お願いできますか?」という軽い一言。言われるたびに、こちらが役所をまわるのが当たり前になっていることに気づく。いや、頼まれてるからやるんだけど、もともとは依頼人のやることじゃないのか?と疑問が湧く。でも、揉めるのも面倒だし、時間もないしで、結局こっちが折れる。役所に行く途中、ふとガラスに映る自分を見て「なんか老けたな」と思った時、ちょっと泣きそうになった。

「そんなに大事ならちゃんと管理してよ」と言われた日

ある日、依頼人から「えっ、そんなに大事な書類だったんですか?だったらもっと早く言ってくださいよ」と言われた。正直、頭が真っ白になった。こちらからすれば、最初に「これは重要です」と何度も伝えていた。それでも、向こうにとっては“書類のひとつ”程度。こちらの感覚と、あちらの感覚のズレが生み出す虚しさは、言葉では言い表せないものがある。「じゃあ、何だったら大事なんですか?」と心の中で毒づいた。

missing valueは現場の叫び

missing valueという言葉は、本来データ分析の用語だが、私たち司法書士にとってはもっと感情的な言葉として響く。失くされた一枚の紙には、時間、信頼、そして努力が詰まっている。それが失われた瞬間、業務は自分の心も少しずつ削られていく。missing valueは、数値だけでなく、感情の損失でもある。

手続きは揃っていても、気持ちはバラバラ

書類さえ揃えば仕事は進む。でも、その過程にある小さなストレス、行き違い、不信感が積もっていくと、気持ちのモチベーションが維持できなくなる。どんなに綺麗に仕上げても、「お疲れさま」の一言もないと、達成感が生まれない。まるで、完成したジグソーパズルの最後のピースが抜けているような虚しさ。書類が揃うことと、心が満たされることは、どうやら別物のようだ。

丁寧にやればやるほど疲弊する矛盾

いい加減な仕事をすれば楽かもしれない。でも、それではトラブルが起きるし、自分の仕事に納得できない。だからこそ丁寧にやる。けれども、丁寧であるがゆえに失敗が許されず、常に緊張感に晒される。矛盾だ。努力しても評価されず、むしろ責任だけがのしかかる。司法書士は、裏方でありながら「ミスしないこと」を強く求められる職種。目立たないけど、しんどい。そういう仕事だ。

「失くした人」に優しい社会、「責任背負う人」に厳しい現実

書類を失くした人は、「すみません」と言えば済む。だが、失くされた側は、再発行の手間、手続きの再調整、納期遅れの責任まで背負うことになる。失敗をした人よりも、それに対応した人が疲弊していく構図。優しい社会ってなんだろう。もっと声を上げてもいいはずなのに、司法書士は黙って処理することが「美徳」とされがちだ。そろそろ、そんな風潮を見直してもいい頃かもしれない。

どこからがこちらの責任か、いつも曖昧

たとえば、依頼人が書類を紛失しても、「渡してなかったですかね?」と軽く返されると、こちらも強く言えなくなる。怒っても仕方ないし、事務所の評判を落とすわけにもいかない。だから曖昧に対応する。それが積もり積もって、「司法書士って便利屋?」という空気になる。この“責任の線引き”がはっきりしないのも、この業界のしんどさの一因だ。

それでもやめられない仕事の理由

ネガティブなことばかり書いたが、それでも続けているのは、この仕事にしかない「瞬間」があるからだ。誰かが「本当に助かりました」と言ってくれた時、たった一言でも、心が報われる。大変だけど、この業界にしかない感動もある。その一言のために、また明日もmissing valueと戦う。そんな日々を続けていくのだと思う。

誰かの「ありがとう」が残る場所

ある日、相続手続きを終えた高齢の女性から、手書きの手紙が届いた。「何もわからない中、親切に対応してくださりありがとうございました」と書かれていた。これが、心に沁みた。大変な日々でも、誰かの役に立てたという実感だけが、続ける原動力になる。書類の山に埋もれても、そういう言葉がある限り、司法書士という仕事は価値がある。そう信じて、今日もまた一歩ずつ進んでいこうと思う。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。