静かな田舎町の一件の相談
夏の終わり、暑さが和らいだ午後。事務所の扉が静かに開き、麦わら帽子をかぶった初老の男性が姿を見せた。 手に持った分厚い封筒を机に置きながら、控えめな声で「父が亡くなった家の登記のことで…」と口を開いた。 話を聞く限り、その家は登記が古く、相続人が複数いる「共有状態」だという。
古びた地目と誰かの沈黙
登記簿を見ると、地目は「宅地」だが建物登記がされておらず、土地の共有者が三名。 そのうちの一人、長男である相談者以外の二名とは長年連絡を取っていないとのことだった。 「でも一人だけ、妹のミホは最近電話で話したんです」と彼は言った。「弟のカズヤは…何も語らない。まるで居ないみたいに」
亡き父と未登記の家
家は父親が建て、誰の名義にもならないまま半世紀が過ぎていた。 「まるでサザエさん家と同じだな…ずっとそこに住んでるけど、誰のものでもない状態で」と私は呟いた。 遺言もなければ登記原因もはっきりしない。これは地味に面倒なやつだ。
サトウさんの冷静な分析
「相続登記だけでは済みませんね」とサトウさんがパソコン画面を覗きながら言った。 彼女は無表情ながらも淡々と、必要な書類や想定されるトラブルをリストアップしていく。 「問題は“語らない共有者”が本当に意思を持って沈黙しているのか、それとも連絡が取れないのかです」
相続人の一人が語らない理由
弟のカズヤには連絡がつかないという話だったが、住民票を追ってみると数年前に転居記録が途絶えていた。 失踪か、消息不明か、それとも意図的な何かか。共有者の一人が“沈黙している”状態では登記手続きは進まない。 「法定相続分の登記だけして、共有のままにしておくしかないですね」私はそう結論づけかけた。
不自然な委任状と不在者の名
そのとき、相談者が封筒からもう一通の書類を取り出した。「実は、妹のミホがこれを…弟のカズヤの委任状です」 だが見た瞬間、違和感があった。字が古い、署名が妙に整っている。 「この字…まるで昔の契約書からコピーしたみたいですね」とサトウさんが眉をひそめる。
元野球部の直感が働く
私は学生時代に使っていたグローブのことを思い出した。手のクセというのは消えないもので、筆跡も同じだ。 昔の名義変更届と照らし合わせると、明らかに筆跡が異なる。これは誰かが代筆している。 「やれやれ、、、こりゃ一筋縄じゃいかないぞ」
過去の登記から読み解く嘘
昔の相続登記を閲覧すると、実はその弟のカズヤは十年前に自己破産しており、以降の登記に現れていなかった。 しかも破産後に消息不明となっており、法律的には「不在者」として扱える可能性が出てきた。 これを使えば、家庭裁判所で不在者財産管理人の選任も視野に入る。
小さな地番の大きな意味
ふと、登記簿の中の“隣接地”の記載が目に止まった。カズヤの名義が残っていた、別の土地が隣にある。 登記簿の附属書類を見ると、その土地には「地役権」が設定されており、電柱が立っている。 つまり、無断処分ができない。ここがミホの焦りの原因だったに違いない。
法務局の調査と旧資料の断片
私は市の法務局で、旧い閉鎖登記簿の閲覧を申し込んだ。そこには、戦後すぐの譲渡記録が残っていた。 その中に「川谷一矢」という名があった。相談者の弟「カズヤ」とは、もしかして…。 「漢字が違うけど、これは同一人物の可能性が高いですね」とサトウさんが言った。
最後の証人は古い隣人
現地に足を運ぶと、近隣に昔から住む老婦人がいた。「カズヤくん? ああ、昔は川谷って名乗ってたよ」 その言葉で全てが繋がった。ミホは兄に隠れて、共有名義の整理を進めようとしていたのだ。 だが、共有者の存在を消すことはできなかった。
思いがけない一言が全てを繋ぐ
「家を売るつもりだったんですね」と私が言うと、相談者は驚いた顔をした。 「妹がそう言ってました。売って、山口の施設に父の遺影を移そうって」 全てはそこにあった。語らなかったのは弟ではなく、語らせなかったのは妹だった。
サトウさんの推理と真相の提示
「代筆された委任状は無効です。むしろ、それを提出していたら詐欺に問われる恐れがありましたね」 サトウさんは冷静に言いながら、申請書類を一式ファイルにまとめて差し出した。 「不在者財産管理人の選任、こちらの申立書式も添えておきます」
登記簿は語るが人は語らない
書類の束を前に、相談者は長く黙っていた。 「弟とは…もう話すこともないと思ってた。でも、何かを守ってたのかもしれないな」 語られなかった真実は、登記簿の中で静かに残されていた。
決着と静かな登記完了
一ヶ月後、家庭裁判所の選任が通り、無事に登記が完了した。 事件にはならなかったが、何かが確かに動いた。 司法書士という仕事には、時に“語らないもの”と向き合う覚悟が必要なのだ。
沈黙を守った理由と司法書士の一言
ミホからの手紙には「兄さんと話せてよかった」という一文が添えられていた。 やれやれ、、、ようやく終わったか、と私は一人ごちた。 サトウさんは無言でアイスコーヒーを置いてくれた。少しだけ、苦味が優しかった。