お祝いされる機会がなくなってきた司法書士の話

お祝いされる機会がなくなってきた司法書士の話

気づけば、誰も「おめでとう」を言ってこない

昔は、誕生日が近づくとソワソワした。誰が覚えてくれているのか、何をもらえるのか、そんな期待が心を膨らませていた。けれど、45歳になった今、その期待はもうどこにもない。誕生日が来ても特別な予定は入らず、LINEの通知すら静まり返っている。誰にも言わないせいもあるが、言ったところで反応があるとも思えない。気づけば「祝われること」が、まるで遠い世界の話のようになっていた。

誕生日ですら静寂に包まれる日常

今年の誕生日は、たまたま日曜日だった。特に誰にも言わず、朝から洗濯と買い出しを済ませ、午後は帳簿整理。気分を変えようとコンビニでケーキを買ってみたが、結局事務所で一人、PCの明かりの前で食べただけだった。子どもの頃は、誕生日といえばケーキとプレゼントがつきもので、家族で囲む食卓には笑い声があった。今は…冷蔵庫の余白が目立つだけだ。

通知は届くけど、誰も触れてこないLINE

スマホには相変わらず通知がくる。Amazonのおすすめ、クレジットカードの利用明細、そしてSNSからの誰かの投稿通知。でも「おめでとう」と書かれたメッセージはゼロ。誕生日をFacebookに登録していた頃は、数人から形式的なメッセージが届いたこともあったけれど、今はその機能さえオフにしている。どうせ誰も覚えていないなら、最初から期待しない方が気が楽だ。

ケーキはスーパーで半額、ろうそくは無し

夕方、スーパーで半額になったショートケーキを見つけた。なんとなく「これで十分」と思ってカゴに入れる。ろうそくは買わなかった。立てる理由も、火を灯して願うことも思いつかなかったからだ。帰宅して食べたケーキは、思ったより甘くなかった。多分、気持ちのせいだと思う。

「お祝いされる」という文化からの脱落

大人になるにつれ、「祝ってもらう側」から「祝う側」へと立場が変わっていくのは当然かもしれない。でも、それにしたって極端すぎる気がする。子どもがいない、パートナーもいない、同僚付き合いも最低限。となれば、祝ってくれる人がいないのは自然の成り行きだ。気づけば、自分は「お祝い文化」からフェードアウトしていたのだ。

司法書士という仕事が拍手されにくい理由

司法書士という仕事は、ありがたがられることが少ない。誰かの人生の節目に関わっているはずなのに、「ありがとう」より「まだですか?」と言われるほうが多い。地味で、専門的で、一般の人から見れば何をしているのかわかりにくい仕事。そんな自覚があるからこそ、「祝われる」ことがどんどん遠ざかっていく気がする。

地味・目立たない・わかりにくい

「司法書士って何してる人なんですか?」と聞かれることは珍しくない。説明すればわかってもらえるが、それに感心してもらえることはほとんどない。登記も相続も、法律の裏側で黙々と処理するだけ。表舞台に立つことがないから、拍手も祝福もない。まるで舞台裏の黒子のように、存在感は消えていく。

家族にさえ説明が難しい仕事

実家の母親に「今やってる仕事はね」と話しても、「ふーん、大変そうね」と返されるだけ。たぶん、ちゃんと理解していないと思う。でも、それで責める気にはなれない。この仕事は、家族にさえ説明しづらい。そういう仕事だからこそ、成果を祝ってもらうのも、どこか場違いな気がしてしまうのだ。

「ありがとう」より「まだですか?」が多い日々

感謝されたいわけじゃないけど、せめて「助かりました」の一言があれば救われる。けれど現実は、「今どこまで進んでますか?」「これ、いつ終わりますか?」という連絡が圧倒的に多い。祝われる以前に、追われるような毎日に、気づけば自分の誕生日すら忘れそうになる。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。