笑い方を忘れた日、僕は業務日報だけを書いていた

笑い方を忘れた日、僕は業務日報だけを書いていた

ふと気づいた「笑ってない自分」

ある朝、洗面台の鏡に映った自分の顔が、あまりにも無表情でぎょっとした。何か嫌なことがあったわけでもない。ただ、「あれ?最近、笑ったっけ?」とふいに思ったのだ。笑い方が思い出せない、という感覚。それはまるで、長年使っていなかった鍵を回そうとして、どの方向に回すべきかすら忘れてしまったような違和感だった。日々、業務をこなすことに意識が向きすぎて、感情のスイッチが切れたままになっていたのかもしれない。

笑顔の記憶が、遠い昔のように感じる日

学生時代の友人と居酒屋で馬鹿話をして腹を抱えて笑った夜。あの時のような笑いは、ここ数年していない。そう実感した瞬間、何かがこぼれ落ちたような気がした。事務所で事務員とちょっとした笑い話をすることはある。けれど、あれは「笑ってるふり」だ。本当の意味で「笑っている」のかというと、疑わしい。仕事の中で笑いの余白を見つけることが、どんどん難しくなっている。

忙しさに押し流されて、感情を置き去りにした

書類の締切、登記の確認、依頼者対応――毎日が「やらなきゃいけないこと」で埋め尽くされる。感情を持っていたら追いつけない。だから、自分でも気づかないうちに「感情は後回し」にしていたのだろう。そうして置き去りにされたまま、笑いの感覚だけが抜け落ちていったのだ。心がすり減る感覚はあったが、笑えないほどとは思っていなかった。けれどそれは、すでにとっくに起きていたことだった。

「楽しい」の定義すらあやふやになっていた

休日に動画を観ても、ゲームをしても、どこか「やらされている」ような気がして楽しめない。昔はドライブやカメラが趣味だったが、今や車に乗るのも面倒に感じる。こうして、自分にとって「楽しい」と思えることの感覚まで曖昧になっていく。もしかすると、「楽しい」も「笑う」も、同じ場所にあったのかもしれない。そして、その場所に久しく立ち入っていない自分がいる。

司法書士という肩書きが重くなる夜

この肩書きを持って働くことが誇りだった頃もある。けれど最近は、「司法書士」という肩書きに縛られているように感じることがある。自分を守る鎧でもあり、同時に心を閉ざす檻でもある。人から「先生」と呼ばれることに疲れてきた。呼ばれれば呼ばれるほど、自分を偽らなければならない気がして、ますます本音から遠ざかっていく。

誰にも頼れない仕事の責任と孤独

一人事務所では、何かが起きてもすべて自分の責任だ。誰にも相談できない、という状況が日常だ。自分で選んだ道ではあるけれど、その孤独の深さは想像以上だった。たとえば、ミスがあったとき。その瞬間、背中に氷を流し込まれたような冷たさが走る。そのあと誰にも見せられない顔でひとり修正作業をしている自分が情けなくて、ますます笑顔が遠ざかっていく。

「先生」と呼ばれるほど、言えなくなる弱音

「先生、大丈夫ですか?」と事務員が声をかけてくれても、「大丈夫」としか返せない。弱音を吐いたら終わりだと思っているわけではない。けれど、この肩書きを背負ってしまうと、不思議なほど言葉が喉で詰まるのだ。本当は誰かに、「つらい」と言いたい。ただそれができない自分をまた責める。笑い方を忘れたのは、自分で自分を許せていなかったからかもしれない。

事務所の静けさに、自分の心音だけが響く

平日の午後、事務所の中が妙に静かだと気づくことがある。事務員は外出中。時計の針の音すら響く空間に、自分のキーボードを叩く音だけが鳴り続ける。この静けさに、何度も不安をかき立てられた。働いているのに、生きている実感がない。そんな感覚に襲われる。たった一言、誰かと交わす会話だけで救われることもあるのに、それすら贅沢に思える瞬間がある。

一人事務所の現実と、その気まずい静寂

「自由でいいですね」と言われることもある。でもそれは、表面だけだ。一人で仕事を回す現実は、自由よりも「切なさ」に満ちている。誰にも邪魔されない代わりに、誰にも励まされることもない。静けさが怖くなったのは、いつからだったろうか。笑う相手もいなければ、笑われることもない。この無音の世界が、自分をどんどん無表情にしていくのだ。

事務員の前で無理に作る笑顔がつらい

彼女が気を遣って冗談を言ってくれるときがある。ありがたい。でもそれに反応しなければ、こちらが「機嫌が悪い」と思わせてしまいそうで、無理に笑う。それがしんどい。そういう気遣いの積み重ねが、逆に心の距離を生んでいく。笑いって、自然に出るものだと思っていた。けれど、今は「笑わなきゃ」と思ってしまっている自分がいる。

誰かと笑い合う時間の価値を、ようやく知る

久しぶりに、同業の先輩と電話で雑談をした。たわいもない話だったが、笑った。声を出して笑った。それがとても嬉しくて、電話を切った後に自分でも驚くほど心が軽くなっていた。たった数分の会話で、こんなにも気持ちが晴れるのかと驚いた。やっぱり、人とのつながりって大事なのだと思った。笑いは、取り戻せる。そう思えた瞬間だった。

同業者との雑談が、妙に心に沁みた瞬間

業界の愚痴、昔の研修の思い出、顧客あるある――そんな他愛ない話が、なぜかやけに沁みた。お互い「もう歳だな」と笑いながら、実は同じように悩んでいたことに気づく。話すことで、孤独感が少しずつ溶けていく感覚があった。笑いは、解決ではなくても、癒やしにはなる。そして、癒やしこそが次の日を生きる力になる。そんなあたりまえのことを、忘れていた。

「共感」だけが、少しだけ気を軽くしてくれた

共感というのは、劇的な何かではない。ただ「わかるよ」と言ってもらえるだけで、肩の力が抜けるものだ。誰かに言われることで、自分の心の中にも「それでいいんだよ」と響く。それが嬉しい。司法書士という仕事は、どうしても孤独に陥りがちだ。だからこそ、こうした何気ない共感が、何よりの薬になるのかもしれない。そして、その瞬間には、確かに自分も笑っていた。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。