また登記か…LINEは今日も静かです

また登記か…LINEは今日も静かです

スマホが震えるたび、心も揺れる。でも大抵、登記。

朝の静寂を破るスマホのバイブ音。期待を込めて画面を覗き込むと、そこに表示されるのは「登記情報提供サービス」からの通知。恋人からのLINE?そんなものはとっくの昔に鳴らなくなった。いまや私のスマホに最も頻繁に語りかけてくれるのは、法務局周辺の電子の声ばかりだ。自分でもわかっている。通知音にいちいち反応する自分が滑稽だと。それでも、「もしかして誰かから?」という一縷の希望を胸に、画面を見る癖が抜けない。

登記情報提供サービスさん、あなたは今日も仕事熱心ですね

毎日のように届く「登記完了のお知らせ」。私の事務所における一番の働き者は、このサービスかもしれない。正確で迅速、そして文句ひとつ言わず、淡々と通知をくれる。ありがたい存在なのは間違いない。でもね、正直言って、あんたの通知ばっかりじゃちょっと寂しいんだよ。私にも、一応「人間関係」というやつが欲しい時もある。あんたとの関係が一番濃いというのは、いろんな意味で末期じゃないか。

朝イチの通知が「登記完了」だったときの、妙な敗北感

朝、寝ぼけ眼でスマホを見ると通知がひとつ。「登記完了通知」。その文字列を目にした瞬間、布団の中でため息が漏れる。おい、今日もか、と。たしかに仕事は進んでいる。依頼者にとってはいいことだろう。けれど、私個人としては、今日もまた“人間らしいやりとり”はゼロか、という虚無感のほうが勝つ。通知ひとつで「今日の孤独度」が測れてしまうとは、思ってもみなかった。

LINEの通知は…まあ、来ないよね。うん、知ってた

期待しない、とは言っているけれど、スマホを開くとき、ほんの少しだけLINEに未読バッジがついていることを願ってしまう。それが現実になることは、ほとんどない。友人付き合いも疎遠になり、恋愛の気配なんて絶滅危惧種。誰ともつながっていない感覚が日々強くなる中、スマホの通知欄に光る「登記情報提供サービス」が、唯一のコミュニケーションになっている。なんだか、自分がどんどん社会から離れていっている気がして、怖くなることもある。

通知にときめいた自分を殴りたい

たまに、通知が来たときに一瞬ドキッとする。まるで青春時代の恋愛漫画のワンシーンのように、「もしかして、あの人から?」なんて。だが現実は、9割方登記関連。むしろ最近は、登記の方が予想できて安心感すらある。この慣れきった孤独に、何とも言えない安定を見出してしまっているのだと思うと、自分で自分を情けなく感じる。ときめきとは無縁の通知に心が揺れた瞬間、思わずスマホを投げたくなったこともある。

「誰かからかも?」と思った一瞬の高揚と、その後の落差

通知が来た瞬間に心が跳ね上がるのは、人間の性かもしれない。それが仕事の案件であっても、「誰かが自分を必要としている」気がしてうれしいのだ。でも、LINEでもなくメールでもなく、ましてや電話でもなく、“登記完了のお知らせ”。その高揚感から落下するスピードたるや、遊園地のフリーフォールも真っ青だ。わかってる。もう慣れてる。けれど、あの高低差にはいまだに毎回ちょっとだけ傷つく。

登記情報提供サービスのほうが、よほど付き合いが長い

よくよく思い返せば、この登記通知と付き合い始めたのは、まだ電子申請が出たての頃。あの頃からずっと、律儀にメッセージを送り続けてくれている。そんな長い付き合いの相手、ほかに誰がいる?友人とは音信不通、親戚とも疎遠。恋人?それは幻想の生き物。結局、いちばん私を見ていてくれるのは、登記情報提供サービスという現実。こんな長い付き合いなのに、名前すら感情を込めて呼べないのが切ない。

そもそも、なぜこんなに通知が来るのか?

通知が来るということは、それだけ仕事をしているという証だ。確かにそうだ。登記申請をし、完了し、また次の案件へ。その流れは日々繰り返され、通知はその通過点。だが、本当にそこまで案件が多いのか?という疑問も浮かぶ。忙しさの波に飲まれているうちに、通知の意味がだんだん希薄になっていく。「数」が「意味」を凌駕するとき、私たちはただの機械になってしまうのかもしれない。

業務効率化のはずが、気づけば心を侵食

もともとは業務効率を高めるために導入したシステムだった。通知が来ることで、進捗が可視化される。便利。便利なはずだった。でも、便利さの裏側には“感情の鈍化”が潜んでいた。通知が増えれば増えるほど、感情が薄れていく。もはや「お知らせ」ではなく「作業進捗アラート」。便利のはずが、心を置いてきぼりにしていたことに、ある日ふと気づいた。

依頼数は多くないはずなのに、通知はなぜか多い

これは不思議な話なのだけど、そこまで案件数が多くない月でも、通知数は減らない。それはひとつの案件で何度も通知が来るからだ。中間通知、完了通知、補正通知…。気づけば、ひとつの案件から5回も6回もお知らせが来ることがある。まるで未読LINEを連投してくる元恋人みたいで、ちょっと怖い。いや、寂しさが増す分、もっと怖いかもしれない。

謄本を取ってるのか、心を削ってるのか、もうわからない

法務局からの通知が来るたび、「また謄本か」と呟いてしまう。その瞬間、自分が機械的に処理される側にいるような気がしてしまう。謄本を取得するという単純作業のはずなのに、通知が多すぎて、こちらの気持ちが削られていく。仕事をしているはずなのに、どこかで「生きている」実感が薄れていく。司法書士という仕事は、いつの間にか、感情を置き去りにして進んでいくものになっていたのかもしれない。

事務員は「また来ましたよ」と笑ってる。こっちは笑えない

事務員の彼女は、いい意味で鈍感だ。通知が来るたびに「来ましたよー」と笑って言ってくれる。明るくて、元気で、救われている部分もある。けれど、こっちはその通知のたびに、心の奥がギュッとなっている。笑って返せない自分が、またちょっと惨めになる。たった一通の通知で、こんなにも心を揺らしてくるのだから、仕事って罪だと思う。

事務員との通知トークも、最初は楽しかった

最初の頃は、通知が来るたびに「またですね~」「早いですね~」と笑っていた。軽い会話のネタになっていた。それが、だんだんと義務的な確認作業に変わっていった頃から、会話のトーンも変わった。私の受け答えが「はい、確認します…」と沈んでいくと、彼女もそれに合わせるように静かになっていった。通知が、職場の空気すら変えてしまったのかもしれない。

今ではもう、登記が日常を侵食してることにしか気づかない

気づけば、私の一日は登記に始まり登記に終わる。通知がなければ始まらず、通知が来たら処理し、通知を見送ってまた明日。そんなサイクルにどっぷり浸かってしまった。まるで登記のために生きているような日々だ。いや、それも司法書士として当然なのかもしれない。でも、ふと立ち止まると、そこに「自分の感情」が見当たらないことに気づく。そして今日もまた通知が鳴る。

それでも通知がゼロの日は、それはそれで寂しい

これがまたやっかいで、通知が来なければ来ないで、今度は不安になるのだ。「あれ?今日は何もないのか?」「仕事、減ったのか?」と。通知があると落ち込み、ないと焦る。矛盾の塊だ。もはや通知そのものが、精神のバロメーターになっている。完全に振り回されているのに、それでもスマホの画面を見続けてしまう。なんという依存だろうか。

登記からすらも見放される恐怖

通知ゼロの日。それは解放ではない。むしろ恐怖だ。「もしかして、忘れられたのか?」「ミスで申請漏れた?」そんな思考がぐるぐると頭を巡る。登記すら反応してくれない日。それは人として、存在が霞んでいくような不安に襲われる。何もないのに、何かに責められているような気分になる。通知に縛られた生活。それでも、私はそれに縋っている。

忙しいと愚痴り、ヒマだと不安になる。矛盾の塊です

「忙しすぎる」と文句を言い、「今日はヒマだ」と落ち込む。どっちやねん、と自分にツッコミたくなる。でも、きっと多くの司法書士がそうなんじゃないだろうか。この仕事は、感情のバランスを取るのが難しい。登記という「業務の数字」がすべてを支配している世界で、人間らしくあるのは難しい。でも、愚痴をこぼしながらでも、なんとか続けていく。それが私の仕事なのだ。

結局「誰かが必要としてくれている」という錯覚が、通知の正体

通知に一喜一憂するのは、誰かに求められているという感覚を求めているからだ。たとえそれがシステムの自動返信であっても、必要とされている気がしてしまう。人間って、ほんとうに弱い。いや、私が弱いのか。今日もまた、スマホが震える。登記かもしれない。それでも、私はその震えに救われているのだと思う。

まとめ:今日もまた、スマホは静かに登記を告げる

結局、私のスマホは今日もまた「登記完了通知」を告げてくれる。LINEの通知は相変わらず来ない。でも、仕事は進んでいる。それだけでも、ありがたいことなのかもしれない。ちょっと孤独で、ちょっと愚痴っぽいけれど、それでも私は司法書士として生きている。通知に振り回されながら、でもどこかで救われている自分を、もう少しだけ許してやろうと思う。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。