インターホン越しの「お疲れさま」に、不意にこみ上げた感情
ある日の夕方、いつも通りに依頼書類をまとめて、疲れた顔で机に突っ伏していた。電話対応も多く、依頼人からの無茶ぶりも続き、誰にも愚痴を言えず、黙々と仕事をしていた日だった。ちょうどそのタイミングで、インターホンが鳴った。宅配便だ。玄関に出てサインをしようとしたとき、配達員の男性が、爽やかな声で「お疲れさまです」と言ってくれた。その瞬間、何かがプツンと切れた。思わず「ありがとうございます」と小さな声で返したが、扉を閉めたあと、不覚にも涙がこぼれた。見知らぬ誰かの、その一言に、私は救われたのだった。
誰からも労われない日々が当たり前になっていた
司法書士という仕事は、裏方的な性格が強く、登記が通っても、問題が解決しても「お疲れさま」と言ってもらえることは少ない。むしろ「まだですか?」や「どうなってますか?」といった急かしの言葉のほうが多いのが実情だ。もちろんそれも仕事だと割り切っているつもりだが、感情はそんなにうまく制御できない。長年続けていると、「感謝されなくても当たり前」と思う反面、「誰か一人くらい、ねぎらってくれても…」という気持ちも湧いてしまう。誰にも言えないけど、たまには認められたい。そんな心の叫びが積もっていたからこそ、その一言が沁みたのだと思う。
仕事をしても、感謝はされず、文句だけが届く
特に最近は、依頼人からの連絡もメールやLINEが中心になり、顔を合わせることも少なくなった。効率化の裏で、感情のやり取りはどんどん減っている。登記が終わっても「了解です」とそっけない返事だけが届く。苦労して調整した案件も、ひとことの「ありがとう」はほとんどない。逆に、ちょっとでも手続きが遅れれば即クレーム。それに一つひとつ丁寧に対応して、夜にはぐったりしている。感謝されないのがこの仕事、というのはわかっていても、やっぱり時々、「なんのためにやってるんだっけ?」と自問してしまう日がある。
「当然」だと思っていたけど、本音は寂しい
日々の業務が当たり前になりすぎて、自分の頑張りが「見えない存在」になっているような気がする。司法書士という仕事は、派手な成果を出すことも少なく、裏で縁の下の力持ちに徹することが多い。だからこそ「当然」のように受け止められやすい。でも、人間って「当然」って言葉に弱いんですよね。何も言われないのが普通になればなるほど、「俺って必要なのかな」と疑いたくなる。そんなときの「お疲れさま」は、まるで忘れかけていた自分の価値を思い出させてくれる魔法のようだった。
その一言に、肩の力が抜けた
普段なら、玄関先で配達物を受け取るだけで終わるはずのやりとり。けれど、その日は違った。配達員の人が言った「お疲れさまです」の声には、機械的な業務の響きがなかった。ほんの少しの気遣いや、こちらの様子を見ての言葉だった気がした。その瞬間、張りつめていた心がゆるんでしまった。たぶん、自分でも気づかないうちに、心が擦り減っていたのだ。玄関を閉めたあと、思わず息を吐いて、座り込んだ。そして「俺、こんなに疲れてたんだな」と気づかされた。
玄関先で交わしたほんの数秒の会話
相手はただの配達員。こちらのことなど何も知らない。それでも、その数秒の会話の中に、人としてのつながりを感じた。実際、その日は誰とも雑談すらしないまま、仕事に追われていた。電話の相手には丁寧に対応していたけれど、本音を話せる人はいなかった。だからこそ、他人行儀じゃない「お疲れさま」が、何よりも大きかった。言葉の重みって、時と状況によってこうも変わるものかと思い知らされた。
見えない誰かに見守られていた気がした
まるで見透かされたかのように、その言葉は私の疲れや孤独に真っ直ぐ届いた。「誰も見てくれていない」と思っていたのに、ほんの一瞬、誰かがこちらを気にかけてくれたという感覚に救われた。日々の業務で、孤独と責任を抱えている司法書士という立場。その中で、自分の存在が少しでも他者の目に映っていた、と思えることが、どれだけ支えになるか。あの瞬間は、たぶん一生忘れない。
司法書士は“ありがとう”を言われにくい仕事
登記や相続、法人手続き…。どれも人の人生や会社に関わる大事な業務だけれど、完了して当たり前の世界。司法書士が登場するのは“ややこしいことが起きたとき”ばかりなので、感情的にしんどい案件も多い。しかも、表に出るのは「司法書士事務所」ではなく「先生個人」。責任もプレッシャーも直接自分に降りかかってくる。にもかかわらず、結果が出ても拍手はない。それが、司法書士という仕事のリアルだ。
成果が見えづらく、感謝の矢印がズレる
例えば、相続登記をきっちり仕上げたとしても、依頼人からすれば「終わって当然」「むしろ遅いくらい」くらいの認識だったりする。それどころか、依頼人の親族間の揉めごとに巻き込まれることもある。私たちはあくまで手続きを代行しているにすぎないが、その場で感情のはけ口にされることもある。だからこそ、直接的な「ありがとう」はなかなか得られない。なのに、責任だけはガッツリのしかかってくるのが現実だ。
事務員にも気を使い、愚痴も出せず
たった一人の事務員さんに対しても、やっぱり“上司”としての態度を崩せない。彼女に負担をかけすぎないように気を配りつつ、自分の弱音は胸にしまっておく。それが「事務所をまわす側」としての責任だと思っている。だけど、そんな日々が続くと、自分の感情をどこにも吐き出せなくなる。話す相手がいないわけじゃない。でも、話したところで、何も変わらない気がしてしまうのだ。
「雇っている」けれど、弱音は見せられない
事務員さんは本当に頑張ってくれているし、ありがたい存在だ。ただ、愚痴を言ってしまえば、彼女の士気にも関わる。だから、どれだけ理不尽なことがあっても、どれだけ疲れていても、表向きは「問題ないですよ」という顔をする。それがまた、孤独を加速させる。誰かの上に立つって、時にものすごく心細い。でも、それを誰にも見せられないところが一番つらいのだ。
一人親方の“孤独”を埋める人間関係は難しい
フリーランスのような立場でやっている司法書士にとって、人間関係の構築は本当に難しい。地域の集まりに顔を出しても、仕事の話ばかり。同業者同士で集まっても、愚痴を言い合うだけで終わってしまう。プライベートなつながりはほとんどなく、日曜日もスマホを気にしてしまう。自分で選んだ道とはいえ、「誰かと心を通わせる」ということの難しさを、年々強く感じている。
誰かの「お疲れさま」が、たまらなく嬉しかった理由
あの配達員の一言には、何か特別なものがあったわけではない。ただ、心にしみるタイミングだっただけだと思う。でも、そのタイミングこそが奇跡だった。日々の中で忘れかけていた「人とのつながり」を思い出させてくれた。「ああ、まだ俺は人間だったんだな」と思わせてくれる言葉だった。社会の歯車のひとつではなく、“一人の人間”として誰かに存在を認めてもらえた。そんな気がした。
承認欲求という言葉だけでは片づけられない
よく「承認欲求が強い」と言われることがある。でも、司法書士の仕事をしていると、その言葉だけでは片付けられない感情がある。認められたいというより、「誰かに見てもらいたい」「頑張りを感じ取ってもらいたい」という、もっと静かで深い願いがある。その感情を、私はずっと押し殺していた気がする。でも、たった一言の「お疲れさま」が、それを解放してくれた。自分でも驚くほどに。
社会の中で「いてもいい」と思える瞬間
仕事をして、お金をもらって、生活をしている。それだけで十分のはずなのに、「自分はここにいてもいいのか?」という問いが、ふと心をかすめることがある。誰からも認められないと、存在が透明になっていくような気がする。でも、「お疲れさま」の一言で、私はその問いから解放された。そう、あの日だけは、私は確かにこの社会に存在していた。
頑張ってる人ほど、報われたがっている
仕事を真面目にこなし、文句も言わず、結果を出し続けている人ほど、本当は誰よりも「労ってほしい」と思っている。でも、その気持ちを表に出せないから、心の奥底にしまい込む。そんな人にこそ、何気ない「お疲れさま」が必要なんだと思う。もしあなたも今、しんどさを抱えているなら、自分の頑張りを自分で褒めてあげてください。たとえ誰にも気づかれなくても、ちゃんと価値があると信じてほしい。
司法書士に限らず、誰しも“労い”を求めている
この話は、別に司法書士に限った話じゃない。コンビニ店員でも、介護士でも、子育て中の親でも、みんな「誰かに労われたい」と思っている。それは人間として自然な感情だ。だからこそ、少しでも気づいたときには、声をかけてあげてほしい。「お疲れさま」の一言で救われる人が、今日もどこかにいる。私も今度、配達員さんに「ありがとうございます」と伝えてみようと思う。
見えないところで踏ん張るあなたへ
この記事をここまで読んでくれたあなたへ。もしかしたら、あなたも私と同じように、報われない日々を感じているのかもしれません。そんなあなたに、言わせてください。「今日もお疲れさまでした」。その一言が、あなたの心にほんの少しでも届けば、それだけで私も救われます。明日もまた、それぞれの場所で静かに頑張る同志として。