他人の人生は整理できても、自分の人生の片づけ方がわからない
今日も誰かの人生に立ち会っている
この仕事をしていると、本当に色んな人生に触れます。相続の手続き、離婚に伴う財産分与、あるいは子どもの戸籍の問題。どれも誰かの「人生の節目」に関わる瞬間です。なのに、そんな大事な場面に立ち会っていながら、ふと自分のことを考えると、何も整理できていないことに気づきます。自分の人生だけが、ぼんやりと霞がかっていて、進んでいるのか止まっているのかも分からない。自分が関わった誰かは、書類とともに人生の一歩を踏み出していくのに、こちらは事務所で次の相談者を待つだけ。そんな矛盾に、胸が詰まることがあります。
戸籍の整備、相続の段取り、名前の変更
書類を一つ整えれば、誰かの人生が少し前に進む。そんな瞬間に立ち会えるのは、この仕事の魅力でもあります。たとえば、婚姻届の裏付け資料を揃えて提出した若い夫婦。彼らは「これで晴れて夫婦です」と、満面の笑みで手を振って帰っていきました。でも、私はと言えば、山積みの書類を片付けながら、冷めたコーヒーをすすっていた。人の門出を祝う傍ら、自分には祝うべき節目もない。そんな日々が、もう何年も続いています。
「一段落しました」と頭を下げられる日常
「これでやっと落ち着きます」「ありがとうございました」と、深々と頭を下げて帰っていく依頼者を見送るたびに、自分の感情がどこか置き去りになっているのを感じます。自分の人生に「一段落」なんて言える時が、果たしてあるのだろうか?と思ってしまう。誰かの役に立てている実感はある。でも、自分の人生を見つめ直す余裕はまるでない。それはまるで、他人の庭は手入れしているのに、自分の家は雑草だらけのような感覚です。
でもこちらの胸のうちは、どこかもやもやしたまま
仕事が終わっても、どこか胸の内がすっきりしないのは、きっと自分自身の人生に手を入れられていないからなのでしょう。立ち会った人の人生には節目があり、進展がある。でも自分の人生は?と考えたとき、その答えは何年も保留のままです。「これでよかったんだろうか」と夜に一人で考えてしまう時があるのは、他人の節目を見続けて、自分の節目を見失っている証拠なのかもしれません。
「先生のおかげで助かりました」…なのに心が晴れない
依頼者から感謝の言葉をもらうことは、もちろん嬉しいものです。「本当に助かりました」と涙ぐまれたこともあります。けれど、その瞬間を過ぎた後、ふと自分の中にぽっかりと空いた穴が残るような感覚があるのです。やりがいがないわけじゃない。でも、そのやりがいが自分の人生の充実には繋がっていない気がしてならない。感謝されることと、自分が幸せかどうかは、どうやら別の話のようです。
感謝されることはあるけれど、自分の存在は軽くなる
「この人がいてくれてよかった」と思ってもらえる瞬間があっても、事務所を出た途端、その存在感は消えていく気がします。実際に、何年も前に必死で対応した方から「どちらさまでしたっけ?」なんて言われたこともある。自分が費やした時間も気力も、世の中にとっては一時の通過点でしかない。そんなふうに感じるたび、自己肯定感がじわじわと削られていくのを感じます。
人の人生に触れるたび、自分の空虚さが際立つ
誰かの大切な人生の一幕に立ち会っているというのに、自分の中が空っぽに感じる。人の節目を丁寧に支えるほど、自分の人生の空虚さが浮かび上がってくるというのは、なんとも皮肉な話です。「次は自分が幸せになりたい」と思っても、どこからどう始めたらいいのか分からない。人のことは冷静に見えても、自分のことにはどうしても鈍感になるのです。
自分の人生設計だけが、いつも棚上げされる
人の手続きを整えることに追われる毎日で、自分の人生を考える余白がどんどん失われていきます。昔は「そのうち結婚して…」「老後はこんなふうに過ごせたら…」なんて夢想もしていました。でも今では、それらのことを考えるだけで「時間の無駄だ」とすら思ってしまう自分がいる。仕事という言い訳の裏に、本当は向き合うのが怖いだけかもしれないのに。
毎日の業務に追われて、考える余白がない
朝から晩まで電話、来客、書類作成。日々のルーティンに飲まれていると、気づけば一週間、一ヶ月、一年が過ぎている。ふとカレンダーを見て「もう夏?」と驚くような毎日です。自分の人生についてじっくり考える余裕なんてどこにもない。考えようとする隙間も、スマホの通知や期限に追いやられて、気づけば夜になっています。
「老後資金」も「幸せ」も、いつの間にか人ごとに
依頼者の老後設計や財産分与には真剣に向き合うけれど、自分の老後資金については「まあ、なんとかなるか」と曖昧なまま。幸せについても同じで、人にアドバイスすることはあっても、自分が何を望んでいるかとなると、途端に言葉に詰まる。自分自身のことを考えないようにして、目の前の仕事に集中する。それが今の自分を守る唯一の方法になってしまっているのです。
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他人の人生は整理できても、自分の人生の片づけ方がわからない
今日も誰かの人生に立ち会っている
この仕事をしていると、本当に色んな人生に触れます。相続の手続き、離婚に伴う財産分与、あるいは子どもの戸籍の問題。どれも誰かの「人生の節目」に関わる瞬間です。なのに、そんな大事な場面に立ち会っていながら、ふと自分のことを考えると、何も整理できていないことに気づきます。自分の人生だけが、ぼんやりと霞がかっていて、進んでいるのか止まっているのかも分からない。自分が関わった誰かは、書類とともに人生の一歩を踏み出していくのに、こちらは事務所で次の相談者を待つだけ。そんな矛盾に、胸が詰まることがあります。
戸籍の整備、相続の段取り、名前の変更
書類を一つ整えれば、誰かの人生が少し前に進む。そんな瞬間に立ち会えるのは、この仕事の魅力でもあります。たとえば、婚姻届の裏付け資料を揃えて提出した若い夫婦。彼らは「これで晴れて夫婦です」と、満面の笑みで手を振って帰っていきました。でも、私はと言えば、山積みの書類を片付けながら、冷めたコーヒーをすすっていた。人の門出を祝う傍ら、自分には祝うべき節目もない。そんな日々が、もう何年も続いています。
「一段落しました」と頭を下げられる日常
「これでやっと落ち着きます」「ありがとうございました」と、深々と頭を下げて帰っていく依頼者を見送るたびに、自分の感情がどこか置き去りになっているのを感じます。自分の人生に「一段落」なんて言える時が、果たしてあるのだろうか?と思ってしまう。誰かの役に立てている実感はある。でも、自分の人生を見つめ直す余裕はまるでない。それはまるで、他人の庭は手入れしているのに、自分の家は雑草だらけのような感覚です。
でもこちらの胸のうちは、どこかもやもやしたまま
仕事が終わっても、どこか胸の内がすっきりしないのは、きっと自分自身の人生に手を入れられていないからなのでしょう。立ち会った人の人生には節目があり、進展がある。でも自分の人生は?と考えたとき、その答えは何年も保留のままです。「これでよかったんだろうか」と夜に一人で考えてしまう時があるのは、他人の節目を見続けて、自分の節目を見失っている証拠なのかもしれません。
「先生のおかげで助かりました」…なのに心が晴れない
依頼者から感謝の言葉をもらうことは、もちろん嬉しいものです。「本当に助かりました」と涙ぐまれたこともあります。けれど、その瞬間を過ぎた後、ふと自分の中にぽっかりと空いた穴が残るような感覚があるのです。やりがいがないわけじゃない。でも、そのやりがいが自分の人生の充実には繋がっていない気がしてならない。感謝されることと、自分が幸せかどうかは、どうやら別の話のようです。
感謝されることはあるけれど、自分の存在は軽くなる
「この人がいてくれてよかった」と思ってもらえる瞬間があっても、事務所を出た途端、その存在感は消えていく気がします。実際に、何年も前に必死で対応した方から「どちらさまでしたっけ?」なんて言われたこともある。自分が費やした時間も気力も、世の中にとっては一時の通過点でしかない。そんなふうに感じるたび、自己肯定感がじわじわと削られていくのを感じます。
人の人生に触れるたび、自分の空虚さが際立つ
誰かの大切な人生の一幕に立ち会っているというのに、自分の中が空っぽに感じる。人の節目を丁寧に支えるほど、自分の人生の空虚さが浮かび上がってくるというのは、なんとも皮肉な話です。「次は自分が幸せになりたい」と思っても、どこからどう始めたらいいのか分からない。人のことは冷静に見えても、自分のことにはどうしても鈍感になるのです。
自分の人生設計だけが、いつも棚上げされる
人の手続きを整えることに追われる毎日で、自分の人生を考える余白がどんどん失われていきます。昔は「そのうち結婚して…」「老後はこんなふうに過ごせたら…」なんて夢想もしていました。でも今では、それらのことを考えるだけで「時間の無駄だ」とすら思ってしまう自分がいる。仕事という言い訳の裏に、本当は向き合うのが怖いだけかもしれないのに。
毎日の業務に追われて、考える余白がない
朝から晩まで電話、来客、書類作成。日々のルーティンに飲まれていると、気づけば一週間、一ヶ月、一年が過ぎている。ふとカレンダーを見て「もう夏?」と驚くような毎日です。自分の人生についてじっくり考える余裕なんてどこにもない。考えようとする隙間も、スマホの通知や期限に追いやられて、気づけば夜になっています。
「老後資金」も「幸せ」も、いつの間にか人ごとに
依頼者の老後設計や財産分与には真剣に向き合うけれど、自分の老後資金については「まあ、なんとかなるか」と曖昧なまま。幸せについても同じで、人にアドバイスすることはあっても、自分が何を望んでいるかとなると、途端に言葉に詰まる。自分自身のことを考えないようにして、目の前の仕事に集中する。それが今の自分を守る唯一の方法になってしまっているのです。