時間に正確な人間ほど、恋愛には不器用だったりする
司法書士という仕事柄、時間に対する意識は異常に高い。登記の締切、顧客との面談、裁判所への提出書類──すべて時間が命だ。私は常に「5分前行動」を徹底している。たとえば朝の面談が9時半なら、9時には事務所に入り、準備を整え、9時25分には相手を迎える準備をしている。だが、その一方で、プライベート──特に恋愛に関しては、気づけば何年も進展がない。「恋愛には遅れがち」とは、まさに私のことだろう。どんなに几帳面に仕事をこなしても、気になる人に声をかけるタイミングだけは、どうしても遅れてしまうのだ。
スケジュール帳はびっしり、心の予定はずっと空白
私の手帳は常にぎっしりと予定で埋まっている。午前中は相談、午後は法務局、夕方からは書類の作成、そして土日は書類整理か勉強会。充実していると言えば聞こえはいいが、それは誰かと過ごす時間が皆無であることの裏返しでもある。昔、知人から「今度食事でもどう?」と誘われたことがあったが、ちょうどその週は登記申請ラッシュで、気づけば返事すらしていなかった。その後、二度と誘いのLINEは来なかった。心の予定というのは、誰かが自分の都合に合わせてくれるものではなく、自分から空けにいかないと、永遠に埋まらないのだと気づいたのは、だいぶ後の話だった。
「空いてる?」と聞かれたら、「予定は未定です」と答える日々
「今度空いてる日ある?」と聞かれて、つい「予定は未定で…」なんて答えてしまうのが常だった。本当に忙しかった時期もある。しかし、正直に言えば、少し無理をすれば空けられる日もあった。ただ、長年「仕事最優先」のスタンスで生きてきた自分には、その「少し無理をする」勇気がなかった。結果として、「会う」という選択肢を自ら消していたのだ。仕事の依頼なら、時間を割いてでも調整するのに、プライベートとなると急に及び腰になる──まるで、自分の人生なのに自分で管理できていないかのようだった。
仕事は依頼されるのに、恋は依頼されない矛盾
司法書士という職業は、誰かの「お願い」があって成立する。依頼を受ければ、その人のために時間を割き、最善を尽くす。しかし恋愛は違う。誰も「この恋、やってください」なんて依頼してはくれない。自分で動かないと、始まりすらしないのだ。それが長年、私には難しかった。仕事で成功することと、人生を豊かにすることは、必ずしも一致しないと感じた瞬間だった。恋は、自分から始めないと始まらない。なのに私は、依頼が来るのをじっと待っていたのかもしれない。
なぜ司法書士は時間を守るのに恋は遅れるのか?
私自身、なぜこんなにも恋に対して消極的なのかと考えたことがある。答えは単純で、「失敗が怖い」のだ。仕事であれば、ルールがある。手続きを間違えなければ、大きなトラブルは起きない。しかし恋愛はそうじゃない。相手の気持ちは書面に残らないし、期限もなければ正解もない。そんな不確定なものに飛び込む勇気が、年々失われているのを感じる。特に司法書士という、法律と正確さに縛られた日々の中では、曖昧なものへの耐性がどんどん薄れていく。
登記の期日は死守しても、想いの告白は後回し
ある女性に好意を抱いていたことがある。彼女は近くのカフェで働いていて、週に一度はその店に通っていた。何度か言葉を交わすうちに、少しずつ親しくなった。でも、結局何も言えなかった。なぜなら「今は繁忙期だし、落ち着いたら…」と思っていたからだ。しかし「落ち着く時」なんて、結局来なかった。仕事の忙しさを理由に、想いを伝えることから逃げていた。登記の申請には期日があるのに、自分の気持ちには期限を設けなかった──その結果、何も始まらず、何も終わらなかった。
「恋愛って、依頼人のいない仕事に似ている」
ある時ふと、「恋愛って、依頼人のいない仕事に似てるな」と思った。誰にも頼まれてないけど、始めようと思えば始められる。でも動かない限り、進行も成果もない。自分の意志と行動次第なのだ。それが怖いからこそ、つい他のことに逃げてしまう。少し寂しいことを言えば、依頼のない時間が怖くて、わざと仕事を詰め込んでいたのかもしれない。自分で自分を忙しくしていたのだ。そうすることで、恋のチャンスからも自然と目を背けていたのだろう。
地方という場所のせいにしてはいけないとわかっていても
正直に言えば、「出会いがないのは地方だから」という言い訳を何度もしてきた。もちろん都会に比べれば人口は少ないし、交流の機会も限られている。でも、それは本当に理由だろうか? 本当は自分が動かないことを「場所」のせいにして、安心しているだけじゃないか──最近そんなことをよく思う。場所のせいにすれば、自分を責めずに済むからだ。けれど、恋愛に限らず人生を動かすのは、やはり「人の行動」だ。どこにいようと、自分の意志がなければ何も変わらないのだ。
出会いは少なく、出会っても関係が深まらない
たまに商工会や士業の集まりに顔を出すことがある。名刺を交換し、少し話をするが、それ以上に発展することは少ない。年齢のせいか、肩書きのせいか、どこか壁があるのを感じる。恋愛以前に、人間関係そのものが浅くなっている実感がある。人と深く関わるにはエネルギーが必要だ。でも、仕事でそのエネルギーを使い果たしている自分にとって、それはなかなか難しいのだ。
「街コンに行ったら相談されて終わった話」
数年前、思い切って街コンに参加したことがある。自己紹介の時に職業を伝えると、ある女性から「実は相続で困っていて…」と、完全に相談モードになってしまった。悪気はないのだろう。ただその瞬間、ああ、自分って「相談される人」であって「恋される人」ではないのかもしれない、と痛感した。そこにいたのは、司法書士としての自分であって、一人の男としての自分ではなかった。
恋愛市場では、専門職はあまりに説明が面倒だ
司法書士という職業は、なかなか一言で説明しづらい。「弁護士ではなくて…」「登記とか相続とかを扱っていて…」と毎回説明から入らなければならない。そもそも興味を持ってもらう前に、説明疲れしてしまう。誰もが知っている職業じゃないというだけで、スタート地点が少し後ろにある気がするのだ。だからこそ、自分から近づいていくしかないのに、それがまた難しい。専門職って、意外と不器用なものだ。
優しさだけじゃ届かない、わかってるけどやめられない
「優しいですね」と言われたことは何度もある。だが、その言葉の先に続くのはたいてい「でも…」だ。優しさだけでは、人の心を動かすことはできない。そう思いながらも、私はどうしても“優しくあろう”としてしまう。誰かを押して傷つけるくらいなら、距離を取ってしまう。結果として、恋のチャンスをまたひとつ逃しているのかもしれない。
「いい人」で終わる司法書士の定め?
「いい人」でいるのは楽だ。断られても傷つかないし、傷つけることもない。でも、「いい人」で終わるたびに、自分の中で何かがすり減っている気がする。それでも仕事では頼られる。そのギャップがまた、寂しさを生んでしまう。「あの人いい人なんだけどね」──そんな言葉が、自分を遠ざける呪文になっているようにすら思える。
書類の正確さでは人の心は動かせない
書類をきれいに仕上げるのは得意だ。誤字脱字ひとつない登記申請書を出すときの快感はある。だが、どんなに完璧な資料でも、心を動かすことはできない。恋愛に必要なのは、完成度ではなく感情なのだ。そう頭ではわかっていても、どうしても「正しさ」で人の心を動かそうとしてしまう──それが、司法書士という仕事のクセでもあるのだろう。
誠実さと退屈さは、紙一重なのかもしれない
私は誠実な人間だと、自分では思っている。嘘をつかず、時間を守り、約束を破らない。でも、それは時に「つまらない人」に映るのかもしれない。冒険しない、無難、無害──それが退屈さと紙一重だとすれば、少しだけ、冒険してみてもいいのかもしれない。仕事のように、恋にも勇気が必要だ。少しだけ踏み出す。その小さな一歩が、人生を変えるかもしれない。