同窓会の誘いがつらい夜に、僕たちは何を思い出すのか
「また案内が来た」——ポストに届いた同窓会のハガキ
封筒を開ける前から、胸の奥に重い石が落ちたような気分になった。中身はわかっていた。あの、定期的にやってくる「同窓会のご案内」。綺麗な印刷、整った日程、そして「○月○日、ぜひお会いしましょう」の一文。まるで善意の押し売りのようで、心の準備もないまま過去と現在を比較させられるような気がしてしまうのだ。
近況報告という名のマウンティング大会?
みんなが悪気なく書いているのはわかっている。「結婚しました」「子どもが小学校に入りました」「家を建てました」。だけど、どうしても心がざわつく。ひねくれてるのかもしれない。でも、独身で子どももおらず、地方で司法書士をやっているという自分にとっては、どうしても「負け」みたいな気持ちになる。幸せ報告は、時に鈍器になる。
「来られる方は返信を」のひと言がしんどい
たった一行なのに、その一文が何より重い。「来られる方は返信をお願いします」。その裏に「来られない理由、ありますか?」と聞かれているような気がしてしまう。行けない自分が悪いような、付き合いの悪い人間のような、そんな圧力を勝手に感じてしまう。毎回、返信を書く前に一杯飲みたくなる。
なぜ行きたくないのか、自分なりに理由を探してみた
いつも「なんでこんなに同窓会が嫌なんだろう」と自分に問いかけてしまう。行かなきゃいけないわけじゃない。強制されてるわけでもない。でも、心は勝手に緊張し、気疲れする。それはきっと、自分が自分に対して「今のままでいいのか?」と常に問い続けているからだ。
今の自分を人に見せたくない、ただそれだけ
「司法書士になったんだ、すごいね!」なんて言われることはある。でも、それがつらい。実態を知らないまま肩書きだけで評価されるのは、虚しさを感じる。毎月の売上に怯えながら、書類の山に埋もれて、徹夜続きの生活。その現実を語ってもたぶん伝わらない。「すごい人」として見られることほど苦しいものはない。
仕事で疲れ果てた心に余裕がない
日々、登記や相続の書類に追われ、相談者の感情に巻き込まれ、家に帰っても気が抜けない。たまの休日に、気を使う同窓会に出席する気力なんて、正直残っていない。仕事人間だとは思ってない。でも、「生き抜くために働いてる」だけの自分には、笑顔で昔話をする余裕がないのだ。
「あいつ司法書士になったらしいよ」が怖い
誰かが言ってた。「お前って、勝ち組じゃん」。そんな言葉が一番怖い。こっちは日々綱渡りなのに。たしかに肩書きはある。だけど中身は全然追いついてない。やっと事務員を雇えたけど、毎月の給料を振り込むたびに胃が痛い。この不安をわかってくれる人は、たぶん少ない。
立場で見られるより、本音で話したいのに
昔の友人と会いたくないわけじゃない。ただ、「司法書士さん」としてじゃなく、「あの頃の俺」として話したい。それができる場所なら、行ってもいい。でも、肩書きや年収や家族構成を交換しあう場に、自分をさらけ出すのは正直つらい。自慢話は武器じゃない。時に人を黙らせる刃にもなる。
そもそも、友達だったっけ?
そもそも「同窓会に行きたくない」と感じるのは、その場に本当の意味で「会いたい」と思える人がいないからかもしれない。クラスの中心にいたわけでもなく、あだ名すらつかなかった自分にとっては、同窓会は「知ってる人の集まり」でしかない。再会したい相手がいないのだ。
クラスの人気者でもなかったし、陰キャだったし
中学も高校も、地味だった。話しかけられることも少なかったし、こっちも話すのが得意じゃなかった。今思えば、周りに馴染めないまま終わってしまった学生時代だった。同窓会に行けば、あのときの空気に引き戻される気がする。「ああ、また端っこか」って。
あの頃話せなかった本音は、今でも胸の奥に残ってる
話したかったけど話せなかったこと、笑いたかったけど笑えなかった瞬間。そんな記憶が、同窓会の空気の中で甦るのが怖い。大人になった今だからこそ、話せることもあるのかもしれない。でも、その場にいると、あの頃の自分がまだ心の中にうずくまっているような気がしてしまう。
SNS時代の同窓会がもたらす二重のつらさ
いまやSNSで誰がどこで何をしているかが簡単にわかる時代。同窓会に行く前から、みんなの「今」をある程度知ってしまっている。そこであらためて会っても、驚きはないし、話すことも案外ない。知ってるけど知らない、そんな微妙な距離感がつらさを増幅させる。
「近況知ってるけど、あえて話すことがない」関係性
SNSでなんとなく見ている人たちと、直接顔を合わせたときのあの気まずさ。「ああ、お子さん入学したんですよね」とか「家、建てたんですよね」とか、情報はあるけど、会話がない。会話って、情報じゃないんだと気づかされる。そのズレが、居心地の悪さを生む。
幸せアピールの波に飲まれそうになる夜
Instagramで見る同窓会の写真。笑顔で写る同級生たち。こちらはコンビニ弁当片手に残業中。そういうとき、ぐっとくる。比較しないって決めてるのに、心は勝手に比べてしまう。スマホ一つでこんなにダメージを受ける時代、同窓会のハガキ一枚だって十分すぎる凶器だ。
孤独な司法書士だからこそ、誰かの痛みに気づける
同窓会に行けない、行きたくない、そんな自分を責めたくなることもある。でも、そんな心の痛みがあるからこそ、誰かのつらさに気づけるのかもしれない。日々の業務の中で、言葉にできない不安を抱えた依頼者と向き合うことも多い。そういうとき、過去の自分がそっと背中を押してくれる。
「自分だけじゃない」と思える瞬間が、また誰かを救う
こんな思いをしているのは自分だけじゃない。同じように同窓会がしんどい人、会いたくても会えない人、いろんな人がいる。自分が発信することで、誰かが「わかる」と思ってくれたら、それだけで少しだけ報われる。だからこうして、少しずつ書き残していきたいのかもしれない。
つらさを言葉にすることの意味
司法書士の仕事は、黙々と手続きを進める仕事のように見えるけど、実は「心の声を聞く仕事」でもある。誰かの本音に寄り添うには、自分の弱さを知っている必要がある。同窓会の誘いがつらい夜、そのつらさにちゃんと名前をつけてあげること。それが、人と人をつなぐ第一歩かもしれない。