今さら誰かと暮らすとか無理なんだけど
45歳、独身、地方で司法書士事務所を営んでいる。事務員さんがひとりいて、それだけで手いっぱいの小さな事務所だ。そんな日々のなか、ふと「もう誰かと暮らすなんて無理かもな」と思うことがある。いや、正確には「無理だ」と確信に変わってきている。若い頃は「いつかは結婚」なんて思っていたけれど、「一人が楽」になりすぎた今、その“いつか”はとうに賞味期限が切れていたようだ。
一人暮らし歴20年、心の壁はコンクリートより厚い
20年も一人で暮らしていれば、誰かと生活リズムを合わせるという感覚はすっかり消えている。朝は自分のタイミングで起きて、夜は好きなタイミングで寝る。部屋が散らかっていても気にしない。お風呂の順番も、洗濯物の干し方も、全部“自分流”だ。これが「自分の城」というやつかもしれない。誰かと暮らすとなると、そのすべてが交渉の対象になるわけで…。想像するだけでため息が出る。
お風呂の時間すら共有できる気がしない
例えばお風呂。僕は夜中の2時に風呂に入るのが好きなんだ。仕事がひと段落してから、何も考えずに湯に浸かるのが、唯一の癒しだったりする。けれど誰かと暮らしていたら、その時間に風呂を使うことすら遠慮しなきゃいけないんだろう。風呂の蓋をどう閉めるか、シャンプーの置き方はどうするか、そんなことで揉める日々なんてごめんだ。
洗濯の順番で喧嘩する自分が見える
学生時代、友人とルームシェアをしていたことがある。あの頃はまだ若かったから許せていたけれど、今の自分が「洗濯はどっちが先」なんて話で口論になると思うと、ただただ疲れる。タオルと服を分けたい僕に対し、全部まとめて洗いたい人がいたら…と思うだけで胃が痛くなる。もう、そんな生活はこりごりだ。
「ただいま」に返事がある未来に震える
仕事から帰ってきて「ただいま」と言って誰かが「おかえり」と返してくれる――たしかに温かい。でも、同時にその存在に対する気遣いも必要になる。疲れて帰ってきて、ひとりで黙々とご飯を食べるのが当たり前になった今、その空間に誰かがいること自体が重たく感じる。結局、自分が“誰かと居る自分”に耐えられないんだと思う。
職場でも家でも気を遣うとか、もう無理でしょ
司法書士という仕事は、思っている以上に神経を使う。相手の話を最後まで聞いて、法律的に正確なことを、でも角が立たないように伝える必要がある。そんな気の遣い方を一日中して、家でも同じように誰かに配慮する生活なんて、考えただけでゾッとする。せめて家くらい、何も気にせずにいたいのだ。
司法書士という仕事の“終わらない気疲れ”
登記ミスは許されないし、相続はセンシティブだし、依頼者はたいてい疲れている。その空気を敏感に察して、こちらが柔らかく受け止める。そんな毎日を10年以上続けていると、もう「心がすり減ったスポンジ」みたいな状態になる。帰宅後の沈黙こそが、唯一の回復時間だと本気で思っている。
依頼者と家族と…気遣いの三重苦
仮に今誰かと暮らし始めたら、職場で依頼者に気を遣い、実家の母にも電話で気を遣い、そして家では同居人に気を遣う…。それはもう「人生=気遣いゲーム」じゃないかと思ってしまう。自分の人生を、他人の感情に捧げる余裕なんて、もう僕には残っていないのだ。
家でも「先生」と呼ばれたくないけど…
たまに、家族のいる同業者が「妻にも“先生”って呼ばれるよ」と冗談めかして言っている。僕はそれを聞くたびに複雑な気持ちになる。「先生」って、そんなに気軽に呼ばれるものじゃないし、そもそもプライベートくらい“普通の自分”でいたい。だから、家に「もうひとつの職場」ができるのが怖いのかもしれない。
それでも孤独が怖くなる瞬間がある
ずっと一人でいることが平気なわけじゃない。ふとした瞬間、誰かと笑い合いたくなる夜もあるし、病気になったときには「このまま倒れて誰にも見つからなかったら…」という不安に襲われることもある。人と暮らすことを拒絶しながらも、人とつながることを求めている――そんな矛盾が、僕の中にはある。
年末年始の静かすぎる部屋
特に年末年始。テレビの特番が終わり、静まり返った部屋にひとりでいると、まるで世界から取り残されたような気分になる。事務所は休み、電話も鳴らず、誰からもLINEも来ない。コンビニのカップラーメンを食べながら、「何してんだろうな俺」と小さく呟く。こういう時だけは、誰かの存在が少しだけ欲しくなる。
LINEの通知音が羨ましくなる日
電車に乗っていると、誰かのスマホがピコンと鳴る。隣の女子高生は楽しそうに返事を打っていて、そんな音にすら自分の孤独を突きつけられる気がする。僕のLINEは、大体仕事関係か、たまの母からの一言だ。通知音が鳴るだけで心が躍る日が来るなんて、10年前には想像もしていなかった。