朝一番の依頼人
記憶にない依頼内容と封筒
朝の珈琲を一口すすったところで、控えめなノック音が事務所に響いた。サトウさんの冷ややかな「どうぞ」の声に続いて入ってきたのは、見覚えのない中年の女性だった。彼女の手には、少し色褪せた茶封筒が握られていた。
不自然な登記相談
依頼人は亡き恋人の妹
話を聞くと、その女性は、数ヶ月前に亡くなった姉の遺した土地の登記について相談に来たらしい。姉には夫も子もいなかったため、自分が相続するものと思っていたという。だが、登記簿には奇妙な空白があった。
登記簿に残された違和感
持分が動いていないのに所有権が消えている
法務局で取得した登記簿を見ると、確かに土地の所有者欄が空欄になっていた。いや、正確には、所有者が「抹消」された記録だけが残り、新たな名義人の情報がどこにも記載されていなかった。異例中の異例だ。
サトウさんの冷静な指摘
登記申請のタイミングが変
「死亡日と登記抹消の日付が妙ですね」とサトウさんが指をさす。確かに、姉の死亡よりも前の日付で登記が抹消されている。登記申請が生前に行われたとしても、その理由がなければ受理されるはずがない。
隠された登記申請書の謎
提出されたはずの書類が法務局に届いていない
申請書の副本が残っていればわかるはずと探しても、どこにもその写しが存在しない。法務局に問い合わせても、該当する申請書の原本は確認できなかった。「申請された記録があるのに、書類は存在しない」——これは事件だ。
元恋人の正体
彼女はかつて“契約外の同居人”だった
調査を進めると、故人には「事実婚」と言える男性がいたことがわかった。近隣住民の証言では、長年一緒に暮らしていたが、法的な手続きは一切していなかったという。だが、その男の名前が登記簿にはなぜか一度だけ記録されていた。
真夜中の法務局の記録室
過去の閲覧記録に名前を見つける
知人の伝手で、法務局の古いログを閲覧できることになった。そこにあったのは、故人が亡くなる直前に、男性が登記簿を何度も閲覧していた記録。そして、登記原因証明情報を確認するための請求履歴。彼は何かを企んでいた。
名義人変更の裏工作
登記原因証明情報の偽造
まるでルパン三世が金庫を開けるような巧妙さで、男は登記原因証明書を偽造し、土地の名義を「抹消」に導いた可能性が高い。だが、その真偽は本人が既に行方をくらませており、確認するすべはない。
事件の核心
恋と登記の境界線
法では保護されない愛がある。契約も届け出もない関係は、登記という仕組みからはこぼれ落ちてしまう。だがその境界線に、今回のような“登記されない恋”が忍び込み、時に人を惑わせ、欺く。
やれやれ、、、俺の出番か
証拠と証言の詰め将棋
結局、俺がやるしかないか。やれやれ、、、証拠の断片を一つずつつなげ、登記簿に存在しない彼の痕跡を証言で裏付ける。時間がかかる上に報酬は安い。だが、放っておけなかった。これは、恋と法律のはざまに立つ依頼だった。
サトウさんの一手
登記官との接触と説得
最終的に動かしたのはサトウさんだった。理路整然と法務局の担当者を説得し、特別閲覧を認めさせた。彼女の頭の切れには本当に頭が下がる。俺の役目は、もはや「うっかり」してミスを演出するだけだ。
最後の決着
土地は誰のものか 恋は誰のものか
土地は遺族に戻り、偽造の痕跡はひとつずつ丁寧に抹消された。恋は、登記されることなく風に消えたが、彼の想いは確かに残っていた。それを拾うのが、俺たち司法書士の仕事なのかもしれない。
静かな夕暮れ
記憶には残り 登記には残らないもの
事務所に戻ると、夕日がカーテン越しに差し込んでいた。コーヒーはすっかり冷めていたが、どこかほっとした味がした。記録に残らない愛もある。それでも人は、記憶の中に誰かを登記して生きていくのだろう。
サトウさんの一言
「登記されないからこそ 本物かもしれませんね」
片付けをしていたサトウさんが、ふとつぶやいた。「登記されないからこそ、本物かもしれませんね」その一言に、何も返せなかった。ただ俺は、またひとつ、重たい登記簿を棚に戻しただけだった。