相続の話をする前に自分の将来が不安でたまらない
相続の話がどこか他人事に聞こえてしまう理由
司法書士という職業柄、相続の相談や手続きを日常的に扱っているが、ふとした瞬間に「自分には無縁な話だな」と感じることがある。もちろん手続きの意味は理解しているし、制度の説明もできる。でも、心のどこかで「そんな余裕、自分にはないよ」と呟いてしまう。人の将来設計の一端を担いながら、自分の将来には目を背けている。そんな矛盾を抱えながら、今日もまた事務所の机に向かっている。
自分の暮らしがいっぱいいっぱいで余裕がない
一人で司法書士事務所を運営していると、固定費や人件費がじわじわと重くのしかかってくる。月末の支払いに追われて、「今月もなんとか乗り切った」とホッとするのが毎月のルーティン。そんな中で「将来のために投資を」とか「老後の備えを」なんて考えられるわけがない。目の前の仕事に食らいつくので精一杯。ふと通帳を見ると、なんとも言えない虚しさと焦りが同時に押し寄せてくる。
「将来のために」と言われても明日の支払いで精一杯
「もっと計画的に貯蓄しないとダメだよ」と友人に言われたことがある。でも、その友人は会社員で、毎月一定の給与が保障されている立場だ。こちらは、急なキャンセルや支払い遅延が当たり前の世界に生きている。将来のことより、来週の入金の有無のほうが現実的な問題なのだ。もちろん理屈では理解している。でも、現実がそれを許してくれない。そういう時に「相続」という言葉は、別の世界の話に聞こえてしまう。
親の財産よりも今日の生活費が気になってしまう
親が将来残してくれるかもしれない財産よりも、今月の電気代や事務所の家賃のほうが気になってしまう。情けない話だけれど、それが現実だ。50歳手前で将来設計も曖昧、独身で子どももいない自分にとっては、相続よりも「今生きること」のほうが圧倒的に重い。自分の老後なんて、考えると胃が痛くなる。だから考えない。でも、考えないまま歳だけは確実に重ねていく。
同世代と比べてしまう瞬間
高校時代の野球部仲間とは、今でも年に一度は顔を合わせる。でも、その時間が年々つらくなってきた。みんな家族がいて、子どもの成長の話をしている。こっちは一人で、冷凍食品をつまみに晩酌をしている毎日。肩を並べて汗を流した仲間たちとの間に、見えない壁のようなものを感じる。相続の話がリアルな彼らと、自分との距離。それが余計に自分の未来を不安にさせる。
家族を持つことへの焦りと諦めの間
正直、若い頃は「そのうち結婚するだろう」と思っていた。でも、仕事に追われ、人との縁も遠のき、気づけばこの歳。休日にふと、空の冷蔵庫を開けて「誰かが作った夕飯を食べたい」と思う自分がいる。焦りがないと言えば嘘になる。でも、諦めがないかと言えば、それもまた嘘になる。そんな複雑な感情を抱えながら、仕事だけは続けている。
「いつかは」と思っていたはずが気づけば独り
若い頃、独立して仕事を軌道に乗せてから…と考えていた。でも、仕事はいつも「もう少しだけ頑張らなきゃ」の連続で、「いつか」はずっと先延ばしになった。そして気づけば、身の回りには誰もいない。母親だけが「早く孫の顔を」と言っていたが、最近はその話もしなくなった。自分でも、もうその未来を描けなくなっている。
野球部の仲間は皆家族の話をしている
年末の飲み会で、キャッチボールの話ではなく子どもの受験や住宅ローンの話が飛び交うようになった。自分だけが話題に乗れず、空返事ばかり。孤独とはこういうことかと、笑顔の裏で思っていた。仲間の幸せを願う気持ちはある。でも、それとは別に「自分は何をしてきたのだろう」という想いが膨らんでしまう。だからまた、仕事に逃げるのだ。
地方で一人事務所を続けるという選択
東京に出る選択もあった。でも、生まれ育ったこの地で、親の近くで…という気持ちもあって、地方で事務所を構えた。最初はやりがいもあったし、開業した喜びもあった。でも、年々「孤独」と「責任」だけが大きくなっていく。誰かに相談しても、「頑張ってるじゃん」で終わるこの仕事の世界で、もはや何を目指しているのか自分でもわからなくなる。
固定費と責任だけが積み重なっていく
事務員を雇っているという責任もある。彼女の生活もかかっていると思うと、簡単に休むこともできない。仕事が減れば、自分が無理をするしかない。時には「こんなに頑張ってるのに」と思う自分がいて、そんな自分に嫌気が差すこともある。誠実に仕事をしているはずなのに、報われていない気がしてしまう。そうやって、心が少しずつすり減っていく。
雇っている事務員には申し訳ないが愚痴も言えない
事務所内で唯一の同僚である事務員には、愚痴をこぼせない。立場上、上司として弱音を吐くわけにはいかないし、彼女に気を遣わせたくもない。だから、余計に言えないことがたまっていく。事務所を出たあと、一人でコンビニの駐車場に車を停めてため息をつくのが日課になっている。情けないとは思いつつ、それが自分の精一杯のガス抜きだ。
本音をこぼす相手がいない毎日
家族もいない、同業者とも深くつながれない、自分の弱音を受け止めてくれる誰かがいない。そんな毎日が続いている。たまにSNSで同業の誰かの投稿を見ると、「みんなちゃんとしてるな」と劣等感を抱いてしまう。人と比べてばかりではダメだと思いつつ、比べずにはいられないのだ。
それでも仕事を続けている理由
こんなに不安で、孤独で、報われていない気持ちを抱えながらも、それでもこの仕事を辞めないのは、やはり「ありがとう」と言ってもらえる瞬間があるからだ。何かの節目に関わり、誰かの背中をそっと支える。そんな仕事ができる誇りは、たしかに自分の中にある。迷いながらでも、この道を選び続けてきた自分を、少しだけ肯定したくなる。
誰かの人生の転機に寄り添える仕事であること
登記や相続、成年後見…それぞれの場面で、人生が大きく動いている。その瞬間に関わることで、ただの「手続き屋さん」ではない価値があると感じる。小さな感謝の言葉が、明日の自分を支えてくれる。自分の未来には自信が持てなくても、人の人生に寄り添うことで少しだけ自分の存在を肯定できる。それが、この仕事を続ける原動力になっている。
「ありがとう」と言われる瞬間に救われる
手続きを終えたあと、ほっとした表情で「助かりました」と言われることがある。そのたった一言で、一週間の疲れがすっと消える気がする。人と関わることで、自分も少しだけ報われる。そうやって何とか心のバランスを保ちながら、今日もまた登記簿とにらめっこしている。
優しさだけで続けられる仕事じゃないがそれでも
この仕事は、優しさだけではやっていけない。数字、責任、孤独、プレッシャー…いろんな重荷がある。でも、それでも続けている自分を、誰かが見てくれていたらうれしい。誰かが「自分もそうだ」と思ってくれたら、それだけで救われる。この記事が、そんな誰かの心に少しでも寄り添えたら幸いだ。