ぱっと見「完璧」な書類に感じる妙な違和感
日々、登記や契約書の確認をしていると、時折「完璧に整った書類」と出会うことがある。誤字も脱字もなく、余白の使い方まで美しい。形式としては100点満点、申し分ないはずなのに、なぜか背中がムズムズするような違和感を覚える。経験上、そういう時ほど、裏に何かある。書類が完璧すぎるときほど、むしろ警戒心が高まってしまうのだ。
一文字のズレもないのに落ち着かない
昔、ある不動産の売買契約に関わったときのこと。依頼者が用意した資料が、まるでAIが作ったように精緻で整っていた。もちろん確認項目はすべてクリア。でも、違和感がどうしても拭えなかった。調べてみると、ある重要事項の時系列が微妙にズレていたことが発覚。内容としては虚偽ではないが、印象操作としては十分すぎるほど巧妙だった。あのとき、書類の「整いすぎ」を不自然に感じなかったら、こちらも見落としていたかもしれない。
整いすぎていると逆に怖くなる職業病
司法書士という職業病なのかもしれないが、少し乱れた文字や余白のムラがあると安心する。手作業の跡が残っていると、人が関与した証拠として信頼できる気がするのだ。逆に、完全に整った資料には“人間らしさ”がなく、その無機質さに不気味さを感じてしまうことがある。職業人としての感覚が、時に常識を超えた直感へと変わる瞬間だ。
「何かを隠してる気がする」勘が働く瞬間
あの「ぴったり感」、実は計算されたものじゃないか?という疑念がふと頭をよぎる。あまりに整っている書類には、「見せたいものしか見せていない」怖さがある。それはつまり、見せたくない情報をうまく排除している可能性があるということ。人の目を欺こうという意図は、丁寧な言葉づかいや過剰な礼儀にも現れる。そんなときこそ、心のブレーキをかけて冷静に見直すべきだと自戒している。
“完璧”を作る側の心理、読み取る側の不安
こちらが書類を読む側なら、相手は当然“作る側”。だからこそ、書類の仕上がりから相手の性格や思惑が見えてくる。完璧を演出しようとする背景には、不安や過剰な演出願望があることも多い。書類から伝わる“気配”をどう受け取るかで、リスクの察知力が変わってくる。
依頼者が丁寧すぎるときの不安
電話でもメールでも、妙に丁寧な依頼者。書類の送付も過剰包装で、封筒の字も整いすぎていて、内容説明のメモまで付いてくる。最初は「丁寧な人だな」と感心するけれど、そういう人ほど、実は裏で無理しているケースがある。以前、一見完璧な資料を送ってきた依頼者が、実際は多重債務を隠していたことがあった。心のどこかで「やりすぎでは?」と感じる違和感は、意外と当たる。
「完璧さ」は経験不足を隠すベールかもしれない
実務経験が少ない人ほど、見た目の美しさにこだわる傾向がある。自信のなさを完璧さで埋めようとするのだろう。けれど、現場の人間からすれば、逆に“危うさ”がにじみ出て見える。完璧なようでいて、どこか大事なことが抜けている。それはまるで、新築の家に住んだ瞬間に水漏れが始まるような感覚だ。表面的な安心感に騙されてはいけない。
本当に怖いのは“意図的な完璧”
もっと怖いのは、経験も技術もある人間が「確信犯的に完璧な書類」を作るケースだ。誤解の余地を一切与えず、責任の所在が曖昧にならないよう細工された文書。実際、過去に企業の代表がそういう書類を出してきたことがあり、結果的に「責任の所在を問えない」形になっていた。プロがプロを煙に巻く、その戦いに巻き込まれるのは疲れる。いや、正直しんどい。
実際にあった「完璧すぎた書類」が招いた落とし穴
これは実際にあった話だ。ある遺産分割協議書、体裁は完璧。家族構成、財産内容、印鑑まで完璧。だが、戸籍の記載と相違する微妙な続柄の記載に気づき、再確認を依頼。結果的に、実子ではなく養子だったことが発覚した。あの一文を見逃していたら、裁判沙汰になっていたかもしれない。完璧すぎると、逆に盲目になる。だから怖いのだ。
見逃した一行のせいで大事になった話
逆に、こちらが見逃してしまったこともある。昔、法人登記で一文の記載ミスを見逃し、結局、代表者変更手続きが無効になった。申請書は依頼者が作成したもので、これもまた完璧だった。ただその一行、「代表取締役の就任承諾書」に記載された日付が実際とズレていた。それが登記完了後に発覚し、すべてやり直し。あの時の胃痛、今でも忘れられない。
過去に体験した“冷や汗もの”のトラブル
ある日届いた書類一式、整いすぎてて一瞬「これでいける」と思ってしまった。ところが、よく見ると添付されている印鑑証明書の住所が古いまま。依頼者も「ちゃんと更新して出したつもりだった」とのこと。その場で申請していたら、補正どころか却下だった。完璧に見えても、必ず「疑って」かからないとダメだと肝に銘じた出来事だった。
完璧じゃない書類が持つ安心感
完璧じゃない書類には、人の手が感じられる。赤字の修正や、付箋での補足説明、走り書きのようなメモ。そういった“人間味”に触れると、「あ、この人とならやり取りできそうだ」と安心する。司法書士の仕事は、書類を見るだけでなく、人を見ることでもある。完璧でなくていい、むしろその方が“誠実”に見えることもあるのだ。
むしろ「手直し前提」の方が信頼できる
私は事務員に「多少間違ってもいいから、とにかく書いて」と言うようにしている。最初から完璧なものを求めると、かえって間違いを見落としやすい。手直しを前提にすれば、お互いに見直す時間も生まれるし、ミスも早期に発見できる。そうやって積み重ねた書類のほうが、よほど信頼できるというのが実感だ。
事務員とのやりとりに救われた経験
あるとき、私は申請書に必要な項目を1つ入れ忘れていた。気づいたのは事務員のひと言。「これって、○○も要りますよね?」。その言葉で我に返り、大きな手戻りを回避できた。事務員が気軽に「ここ間違ってません?」と言える雰囲気、実はとても大事だと思う。完璧を目指すより、疑問を口にしやすい空気を作ること。それがミスを防ぐ一番の方法だ。
司法書士という仕事と「疑いのセンサー」
この仕事、書類を見ているようで、実は「人」を見ている。その人の誠意や焦り、あるいは嘘。そういうものが、書類の“完璧さ”の中に潜んでいることもある。疑いすぎれば嫌われる。でも、疑わなければ事故る。そんな微妙なバランスの中で、今日も書類と向き合っている。
日々鍛えられる“違和感力”
違和感は“当たる”ことがある。むしろ、経験を積むほどに違和感への感度が高くなってくる。誰かの目をすり抜けるつもりで作られた“完璧な書類”を見たとき、目に見えない赤信号が点滅する。これは、実務の現場でしか身につかないスキルだと思う。だからこそ、今日も“完璧な書類”を前にして、私はそっと眉をひそめるのだ。
疑いすぎても、疑わなさすぎても失敗する
すべてを疑っていてはキリがない。でも、何も疑わないのは危険だ。その間をうまく探る感覚、それが「司法書士の勘」とでも言おうか。信じたいけど、信じきれない。そんな揺らぎの中に、プロの矜持があると思っている。そしてその“迷い”を抱えたままでも、仕事は前に進めなければならない。しんどいけど、それが現実だ。