Google先生の威力とその弊害
司法書士として日々業務に向き合っていると、避けて通れないのが「Googleで調べました」という一言。あれほど絶望感に襲われる瞬間はなかなかない。こちらが時間をかけて説明しても、「でもネットにはこう書いてありましたよ?」の一言で、すべてが否定されるような気がしてしまう。相手は悪気がないのもわかってる。だけど、この仕事、感情を削られるんだ。
相談者の口から飛び出すGoogleの一言
「先生、登記簿の名義変更って、自分でできるってGoogleに書いてました」──そう言われて、ため息をこらえるのが精一杯だった。自分でできる部分もあるのは事実だ。でも、背景もリスクも理解せずに、ただ「できる」と信じきって来られると、こちらの説明が逆に胡散臭く見えてしまう。「お金を取ろうとしてるんじゃないですか?」なんて疑われた日には、もう帰って寝たくなる。
検索結果の信頼度に負ける専門家
ネットの記事の多くはSEOを意識して作られている。専門的に正確でなくても、わかりやすく書かれていれば、そちらの方が信頼される。自分が十数年積み上げてきた知識と経験が、数千文字の記事に負けるんだから、悲しい話だ。もちろん中には正しい情報もあるけど、状況に応じた判断までは書いてない。それを説明しようとすると「話が長い」と言われてしまう。
「ネットにこう書いてあったんですけど?」の破壊力
ある日、相続放棄の相談で来られた方が、開口一番「ネットに、『家庭裁判所に紙を出せばOK』って書いてありました」と言った。たしかに、書類提出が必要なのは間違いじゃない。でも、それには期限もあるし、申述理由や添付書類も必要。そういった部分の説明を始めた瞬間、相手の表情が曇った。「なんか難しいですね」──その一言で、心が折れかけた。
スマホ片手に事務所に来る時代
最近は、相談者がスマホを操作しながら事務所に入ってくる。Googleで得た情報をスクリーンショットして、「これを見て来たんですけど」と言われると、こちらは完全に受け身になる。しかも、その情報が古かったり、法改正前のものであったりすると、訂正作業に倍のエネルギーがかかる。正すために話すほど、信用が削れていくこの矛盾に、いつも胸が苦しくなる。
訂正の難しさと疲弊する日常
情報の訂正というのは、ただ「それは違いますよ」と言うだけでは終わらない。相手に理解してもらい、納得してもらうまでが仕事だ。でも、それがどれほど難しいかは、やったことのある人にしか分からない。話せば話すほど「言い訳してるように聞こえる」と思われる。司法書士という立場であっても、人としての信頼を失えばすべてが崩れるのだ。
間違いを正すと機嫌を損ねる
以前、登記の相談に来た高齢のご夫婦に、ネットの情報に誤りがあることを丁寧に伝えた。すると、「あの有名なサイトより、先生の方が間違ってるとは思えませんね」と返された。そこから空気が一気に悪くなった。理屈より感情が先に立つ。正しさだけでは人の心は動かないと、身をもって知った。
言い返せない優しさが仇になる
つい気を遣ってしまう性格が災いする。言いたいことをグッと飲み込んで、「そうですね…ただ念のため、こちらのやり方も知っておいてください」と遠回しに伝えてしまう。でも、それでは伝わらない。後から「先生、あの時もっと強く言ってくれればよかったのに」と言われたこともある。どっちにしても、しんどい。
説明すればするほどこじれる構図
ある若い相談者に、ネットの内容を訂正しようと詳細な説明をしたら、「先生の話って、ちょっと難しいです」と言われた。「ややこしくしてるのはそっちや!」と心の中で叫んだが、顔には出せない。噛み砕いて説明しても、噛み砕きすぎると逆に軽く見られる。言葉選び一つで、信頼が生まれるか壊れるかの瀬戸際に立たされている。
「専門家らしくないですね」と言われた日の夜
仕事終わりに缶ビールを開けながら、ふと「今日は何のために頑張ったんだろう」と思うことがある。「先生って、ちょっと頼りないですね」なんて言われた日には、胃がキリキリして眠れなくなる。でも、そんな日こそ、事務員の一言「お疲れ様でした」に救われるんだ。たったそれだけで、まだやれるかと思えるのだから、不思議なもんだ。
情報が多すぎる時代に求められる説明力
かつては、士業というだけである程度の信頼が得られた。でも今は違う。相談者の方が「知識武装」してやってくる。こちらが一言ミスれば、「それ、本当ですか?」とすぐ検索される。だからこそ、説明力が重要になってくる。ただ正確であるだけではなく、わかりやすく、そして納得感のある伝え方が必要なのだ。
簡潔に伝えることの難易度
簡潔に伝えることほど難しいものはない。特に登記や相続の話は、背景が複雑で、端折ると誤解が生まれる。でも時間が限られている中で、全部を伝えることもできない。だから、どこまで話すか、どこを省くか、その見極めが毎回の勝負になる。元野球部の経験が、ここで「間合いを読む力」に変わるとは思ってもみなかった。
本当のプロとは何かを問われる瞬間
プロフェッショナルとは、ただ正しい知識を持っている人ではない。相手にとっての「最適解」を一緒に探せる人のことだと思うようになった。Googleは確かに便利だけど、心までは拾ってくれない。そこにこそ、僕らの役割があるのかもしれない。…いや、あってほしいと思っている。
検索ワードよりも強い言葉を探して
Googleの検索ワードよりも、人の心に刺さる言葉を持ちたい。それは法律用語ではなく、「安心してください」「一緒にやりましょう」といった温度のある言葉。事務所に来る人の多くは、不安を抱えている。正論よりも、寄り添う姿勢が求められているのだと、最近ようやく気づいた。
信頼は一日にして成らず
信頼関係は、一回の相談で築けるものではない。何度も接し、何度も裏切らず、ようやく「またこの人に相談しよう」と思ってもらえる。だからこそ、Google情報に負けても、へこたれてはいられない。地味でも、根気強く、丁寧に、信頼を積み重ねる。それしかできないし、それが自分のやり方なんだと思っている。
それでも黙って訂正を続ける理由
Googleに負けても、ネット情報に振り回されても、それでもこの仕事を続けている。文句を言いながらも、誰かの役に立てた瞬間がある限り、まだやれる。大げさに聞こえるかもしれないけど、「あのとき先生に会えてよかった」と言われたことが、一度でもあるなら、それだけで十分なのかもしれない。
依頼者の安心を守るために
司法書士としての役割は、正しい手続きを行うことだけじゃない。依頼者の「これで大丈夫なんですね」という安心を引き出すこともまた、仕事のうちだと思う。そのためには、誤情報の訂正も、説明の繰り返しも、全部必要なんだ。めんどくさい。でも、必要なんだ。
正しい知識が救う未来がある
誤った情報で不動産を失う人もいる。期限を逃して損をする人もいる。だからこそ、正しい知識を伝えることに価値がある。Googleでは拾えない細かな注意点、背景の事情、そして人それぞれの状況。それをきちんと説明できる人が、この仕事には必要なんだと思う。
愚痴をこぼしながらでも続ける仕事
毎日愚痴ばかりだ。事務所の帰り道、一人でブツブツ言っていることもある。それでも、次の日になればまた席に座って、相談者の話を聞いている。やめようと思ったこともあるけど、気づけば15年が経っていた。きっと、向いてるんじゃなくて、諦めが悪いだけなんだろう。
モテないけど背中は見せたい
この仕事をしていても、モテることはない。正直、寂しい。でも、誰かに頼られる背中ではありたい。たった一人でも、「あの人、ちゃんとしてるよね」と言ってくれる人がいるなら、それでいい。誰かの不安を受け止める盾として、今日もまた、机に向かっている。