弁当の温かさに泣きそうになった日

弁当の温かさに泣きそうになった日

忙しさにまぎれて、味気ない昼を過ごしていた

朝からひっきりなしに電話が鳴り、法務局への書類の確認、依頼者との打ち合わせ…。時計を見ればもう13時を回っていた。いつものようにコンビニで買った弁当を事務所のデスクで広げ、スマホを片手に仕事メールを眺めながら片手間で食事を済ませる。こういうのが“普通”になっていた。正直、味なんてよくわからない。ただ胃に物を入れているだけ。そんな昼が、もう何年も続いていた。

コンビニ弁当が日常になると、何かを忘れる

昔は自分でも、たまに自炊をしていた。ご飯を炊いて、おかずを詰めて、保温バッグに入れて…。面倒ではあったけど、作るという行為にはどこか“誰かのため”という意識があった気がする。でも、ひとりになってからはそんな気力もなくなった。安くて、手早くて、そこそこの味のコンビニ弁当は、たしかに合理的だ。でも、いつの間にか「誰かの手間」も「温かさ」も、自分の生活から消えていた。

温かさよりも「手間のなさ」を選んできた理由

コンビニ弁当を選ぶ最大の理由は、「手間がいらないこと」だ。誰かと一緒に食べることもなく、気を遣う相手もいない。温めるかどうかさえも、もうどうでもよくなっていた。時間がないからというより、そういう感情にフタをしてきた気がする。「誰かの作ったものを食べたい」なんて、贅沢すぎると思っていた。

机でひとり、スマホと向き合う昼の風景

昼食の時間も、スマホでニュースやSNSを流し見して終わる。誰かが投稿した手作り弁当の写真を見ても、羨ましいとは思わないふりをしていた。机の上に置かれたプラスチック容器の弁当と、冷めた味噌汁のパック。それが“司法書士の日常”だと思っていた。

手作り弁当が、ふと心を揺らした瞬間

ある日、ふとしたことで事務員さんが「余ったのでよかったらどうぞ」と手作りの弁当を差し出してくれた。断る理由もなく、素直に受け取ってみたものの、胸の奥に妙なざわつきが残った。蓋を開けると、そこには彩り豊かなおかずと丁寧に詰められたご飯。冷凍食品ではない、誰かが“その人のため”に作ったものが目の前にある。それだけで、なんだか目頭が熱くなった。

「作ってきたんです、どうぞ」と差し出された弁当

その日、特に何かしてあげたわけでもない。感謝されるような仕事をしたわけでもない。なのに「余ったから」と渡された弁当は、どこか自分を気遣うやさしさで満ちていた。味噌汁も、おにぎりもない。でもその弁当には、間違いなく“人の気持ち”が詰まっていた。

蓋を開けたら、涙腺がぐらっときた

普段なら「いただきます」と言ってすぐに食べるのに、その日はなぜか箸が進まなかった。蓋を開けて見た瞬間、いろんなことが頭をよぎった。ひとりで頑張ってるつもりだったけど、いつの間にか“頑張りすぎてた”のかもしれない。こんなことで泣くなんて、と自分でも驚いた。

温かさの中に、人の気持ちが見えた気がした

弁当が温かかった。それは、電子レンジの熱じゃなくて、人のぬくもりだったと思う。自分のために誰かが何かをしてくれる、それだけでこんなにも救われるものなのか。仕事では書類やデータばかりを相手にしているけれど、人との関係って、こういうところに本質があるのかもしれない。

仕事では見えない“やさしさ”に触れた日

司法書士の仕事は、形式と期限と正確さが命。そこに感情を挟む余地は少ない。でも、たまにこうして感情が溢れてくる瞬間がある。人間らしさって、効率とは真逆の場所にあるのかもしれない。あの弁当が教えてくれたのは、やさしさって案外近くにあるということだった。

登記申請より、よっぽど人間らしい瞬間

毎日のように登記の手続きをして、期限に追われて、成果を数字で管理される世界。けれど、あの瞬間はそんな世界とはまったく違う時間だった。たった一つの弁当が、自分の中にあった“何か大事なもの”を思い出させてくれた。

こんなに心を揺さぶるものが、まだあったのか

忙しさにかまけて忘れていたけれど、まだ自分にも“感じる心”が残っていたんだと気づかされた。感謝とか温もりとか、そういうものは言葉じゃなく、弁当ひとつで伝わるものなのかもしれない。

自分はいつから「何かを受け取る側」じゃなくなったのか

仕事で「与える側」になることは多い。相談を聞き、書類を作成し、依頼を処理する。でも、「与えられる側」になることには慣れていなかった。何かを受け取るのが、こんなにも嬉しく、同時に苦しくなるとは思わなかった。

優しさを受け取ることに、どこか戸惑いがあった

人に気を遣われるのが苦手だ。何か見返りを求められるんじゃないかと、勝手に勘ぐってしまう。でも、その弁当はただのやさしさだった。なにも求めず、ただ「良かったらどうぞ」と差し出されたその手に、逆にこちらの心が救われた。

ひとりでがんばることに慣れすぎていた

「ひとりでやるのが当たり前」「頼るなんてみっともない」…そんな思い込みに縛られて、結局自分を孤独にしていたのかもしれない。けれど、人の温かさに触れたあの日、自分の中で何かがほぐれた。

誰かのために生きることを、もう一度思い出す

独身で、女性にもモテず、誰かに弁当を作ってもらうことなんてない。でも、だからこそわかる。誰かのために何かをするって、やっぱり尊いことなんだ。今日も机の上にコンビニ弁当があるけど、あの日の味は、今も心に残っている。

司法書士だって、泣いていい

泣くことは弱さじゃない。誰かのやさしさに心を動かされるのは、むしろ“人間らしさ”の証だ。固くて無機質な書類ばかり扱っていると、自分まで冷たくなっていくような錯覚に陥るけど、あの日の弁当はそんな自分を少しだけ溶かしてくれた。

たまには「温かいもの」を素直に味わってもいい

冷めたおかず、期限に追われる業務、誰かに気を遣う毎日。それが司法書士のリアルだ。でも、たまには誰かのやさしさに甘えてもいいんじゃないか。たまには、あったかい弁当を素直に「ありがとう」と言って受け取ってもいいんじゃないか。そう思えるようになっただけでも、自分にとっては大きな変化だった。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。