登記相談は静かに始まった
午後一番、蒸し暑い空気の中で男がやってきた。スーツの襟は汗で湿っていたが、顔には感情の波がない。登記の相談だという。
「妻との贈与契約があってね。持ち分を共有にしたいんです」
そう言って差し出した書類は、完璧に整っていた。…少なくとも、そう“見えた”。
そのときはまだ、サザエさんの波平よろしく「無難に済むじゃろう」と思っていたのだ。まさかあんなことになるとは。
夫婦連名の贈与契約書
契約書には夫婦の署名捺印があり、日付もきちんと揃っている。「法的に見れば問題ありません」と、俺は言った。
だがサトウさんが「この日付、ちょっと気になりませんか」と指摘したのが、全ての始まりだった。いつもながら勘が鋭い。
「令和五年六月三日…この日って、たしか…」彼女はPCを叩きながら眉をひそめた。
離婚届と同じ日付の申請書
なんと、その日付は当該夫婦が離婚届を提出した日と一致していた。市役所の公示情報から確認できた。
「離婚届と同日に贈与契約? これは妙ですね」とサトウさん。俺はうなりながらコーヒーに手を伸ばした。
「愛が冷めた日に贈与ってのは、どうにも合点がいかない…」俺の中で、小さな違和感が大きく膨らんでいった。
妙に無口な依頼人
依頼人の男は、終始表情を変えなかった。質問にも最低限の言葉しか返ってこない。
まるで何かを隠している、もしくは――何かを隠す訓練を受けたかのような沈黙。俺の胃が軽く痛み出した。
「やれやれ、、、」また厄介な案件の匂いがする。俺のこの第六感、だいたい当たるんだよな。
妻の不在に漂う違和感
契約書には確かに妻の署名があったが、登記申請には本人確認資料が添付されていない。
「奥様の免許証のコピーがまだですが」と尋ねると、「そのうち送ります」と曖昧にかわされた。
送ってこない資料ほど不安になるものはない。俺は何かを見落としている気がしてならなかった。
委任状の筆跡は誰のものか
依頼人が置いていった委任状、サトウさんが「ちょっと変ですね」と一言。筆跡が、契約書と微妙に異なるという。
俺は慌ててコピーを並べて見比べる。…確かに「ミ」の払い方が違う。司法書士を舐めるなよ、と思いつつ頭を抱えた。
つまり、誰かが代筆した? 本人が書いていない? ならば、贈与は成立していないかもしれない。
事務所に鳴り響いた警察の電話
その日の夕方、珍しく電話のベルが緊張感をもって鳴った。受話器を取ったサトウさんの顔が凍りつく。
「警察ですって。あの依頼人の奥さん、昨夜自宅で亡くなってたそうです」
血の気が引いた。俺はただ椅子の肘掛けを強く握りしめることしかできなかった。
「奥さんが亡くなって見つかりました」
死因は事故死。だが時刻が問題だった。午前2時前後――つまり、贈与契約書の日付より前だ。
「死んだ人の贈与契約? そんなの通るはずがない」サトウさんの声に苛立ちが滲む。
俺は申請書の山から例の一枚を引き抜いた。ゾクリとした。提出予定日も、契約日と同日だったのだ。
登記申請が死のタイミングと一致
時系列が合わない。贈与者がすでに死亡していたなら、契約は無効どころか詐欺に近い。
誰がこんな無理筋の契約を持ち込んだ? そして何のために?
俺の背中にじっとりと汗が滲んだ。まるでキャッツアイの怪盗三姉妹がすぐ後ろにいたような感覚だった。
贈与か偽装か
すべてが噓に見えてくる。いや、もしかすると契約書は本物で、ただ日付を偽っただけかもしれない。
それでも死亡前後の提出では、やはり無効。動機は金か、それとも何か別の意図か。
「相続逃れ…いや、もしかして生命保険も絡んでる?」とサトウさん。考えられるシナリオが次々浮かぶ。
サトウさんの冷静な推理
「贈与契約書は、生きているうちに作成されたのかもしれません。でも、それを利用したのが…」
サトウさんが言葉を濁した。俺は頷いた。「夫、か」
動機も手段も揃いすぎている。だからこそ、逆に腑に落ちない部分もあった。
登記記録から消えた1行
管轄法務局に確認したところ、申請予定の記録から1件、削除された履歴があった。
担当者によると、「依頼人が急に取り下げた」とのこと。…ビビったか、それとも何かに気づいたか。
俺はその“消えた申請”こそが鍵だと確信した。
やれやれ司法書士の出番だ
翌日、俺は依頼人に電話をかけ、静かに告げた。「このまま進めることはできません。すべて、警察に報告します」
男はしばらく黙っていたが、「わかりました」と一言残し、電話を切った。それきり、消息はつかめていない。
やれやれ、、、またひとつ余計な記憶が積み上がった。
法務局の端末に残されたログ
1週間後、法務局の担当者から連絡があった。「申請システムに、契約日を変更した痕跡が見つかりました」
つまり、依頼人は死亡日を知った上で、登記に必要な日付を改ざんしていたことになる。
これで完全にアウト。俺たちは司法書士として、責任をもって報告した。
元野球部の勘が当たるとき
「この感覚、外野フライが来る直前の“風”と似てるんだよな」
俺の直感は、今回も外れてなかった。サトウさんは苦笑しながら、「じゃあ次からは予告してから跳んでください」と言った。
俺たちは野球と違って、次の試合がいつ来るかも分からない世界に生きている。
最後に明かされた本当の遺志
後日、警察から届いた報告書の末尾に、妻が生前書いていた手紙の写しがあった。
「あなたにすべてを贈ります。でも、愛までは共有できなかった」
紙の上のインクは涙で滲んでいたのか、それとも何かの始まりだったのか――俺には分からなかった。
贈与契約書の裏に隠された手紙
サトウさんが、控えの契約書を見て「これ…裏に、うっすら何か書いてあります」と言い出した。
光にかざすと、そこには彼女の手で綴られた、愛とすれ違いの記録が浮かび上がった。
共有名義にしたその家は、彼女が彼に残した最後の優しさだったのかもしれない。