印鑑よりも空気扱いな僕の発言 ~司法書士という名の透明人間~
印鑑には重みがあるのに、僕の言葉は軽すぎた
仕事柄、日々たくさんの書類に印鑑を押している。重みのある判子。正式な意思表示として受け取られるこの小さな印。なのに、どうして僕の発言はあんなに軽いのだろう。誰かが同じことを言えば「さすが」とうなずかれるのに、僕が言うと「あ、はい」と曖昧に流される。もしかして、自分はもう“聞かれない人”になっているんじゃないかと思うことがある。声は出してるのに、空気に消える。そんな感覚、誰かに伝わるだろうか。
なぜか僕が発言すると流される現象
僕が言った意見が通ったことは、数えるほどしかない。会議でもそう。ちょっと勇気を出して発言した直後、すぐに別の誰かがかぶせるように話し始め、内容は似ているのに「〇〇さんの意見、いいですね」と評価される。僕の発言がその前にあったことなんて、なかったかのように。いや、もしかすると本当に「聞かれていない」のかもしれない。この現象には名前をつけたいくらいだ。
会議でかぶせられる率、100%
たとえば先日の支部の定例会。久々に思い切って発言してみた。「オンライン化を進めるべきでは」と言った数秒後、隣に座っていた先輩が「やっぱり今後は電子化ですね」と続けた。言い回しが違うだけで、言っていることはほぼ同じ。でも拍手は彼に。僕には視線すら向かない。そのとき、印鑑の方がずっと説得力あるな、と思ってしまった。
「あ、そういえば」って全部持ってかれる悲劇
よくあるのが「あ、それ今言おうと思ってた」とか「そういえばそれ、私も前から考えてて」と言われるパターン。これ、優しく否定してるようでいて、完全に僕の発言の価値を奪っている。だったら黙ってた方が傷つかない。でも黙ってたら存在がさらに薄くなる。言っても言わなくても、報われない。そんな気分になる。
そもそも司法書士に存在感は必要なのか
司法書士という職業自体、そもそも「影の専門職」だ。登記手続きの裏でコツコツと動き、誰かの人生を支えていても、その実感を得られることは少ない。そんな仕事だから、声が届かないことにも慣れてしまっていた。でも、それに慣れることは果たして“いいこと”なんだろうか。
裏方の宿命、主役にはなれない仕事
舞台の裏から支える。司法書士はそういう役回りだとずっと思っていた。結婚式でいえば司会者でもなく、照明係でもなく、スライドをクリックする係くらいだ。だからこそ、目立つことを良しとしない雰囲気もある。でも、その裏方の声が必要なときもあるはずなのに、声をあげても誰も見てくれないことが多い。慣れたふりをするしかない日々に、少しだけ虚しさが積もっていく。
求められるのは“確実さ”であって“意見”じゃない
司法書士に求められているのは、「意見」よりも「正確さ」。たとえば「これってどう思いますか?」と聞かれて答えても、「まあ、とりあえず法務局に確認しましょう」で終わることがほとんど。僕の見解や考えは、信頼よりも「リスク扱い」されがちで、自分の判断に価値を感じてもらえることは本当に稀だ。
でも黙っていると「無関心」と言われる理不尽
発言すればスルーされ、黙っていれば「もっと関わってくださいよ」と言われる。理不尽だ。たまに話題に入り込もうとしても、話し終わる前に次の話題に移っていたりして、自分が話したかった内容が中空に消える。相手が悪いんじゃないのは分かってる。でも、こっちだって人間なんだ。誰かにちゃんと聞いてほしいときもある。
職場では事務員さんが主役、僕はただの影
うちの事務所は事務員さんと僕の二人だけ。だからこそ、コミュニケーションは密だ。でも、来客からよくあるのが「先生より、事務の方が話しやすいですね」という言葉。もちろん事務員さんは本当に優秀でありがたい存在。でも、そんなふうに言われると、何とも言えない気持ちになる。僕は何なんだ、と。
お茶もらったときの「ありがとうございます」が一番元気な声かも
日々の業務の中で、自分の発言で一番元気な瞬間は「お茶、ありがとうございます」と言うときかもしれない。誰かに喜んでもらおうとか、提案を受け入れてもらおうとか、そういう発言は慎重になりすぎて、つい小声になってしまう。でも「お礼」だけは堂々と言える。それって、ちょっと悲しいことなんじゃないかとも思う。
優しいけど、存在感では完全敗北
事務員さんはとても明るくて気配りもできて、取引先にも評判がいい。何より、話すと場が和む。僕にはそれがない。頑張って笑顔を作っても、ぎこちなくなるだけ。優しさには自信があるけれど、それが伝わる前に“影の人”になっている気がする。存在感って、努力だけじゃ埋まらない壁があるんだと痛感する。
結局、人柄より話術?と落ち込む瞬間
人柄を大切にしてきたつもりだった。でも、実際は「話がうまい人」「タイミングよく返せる人」が印象に残る世の中だ。人柄はジワジワ伝わるものであって、会話の中でパッと伝わるものではないのかもしれない。そう思うと、話すのが苦手な僕にとっては、スタートラインからして遠い。そんなふうに落ち込む日も多い。
外に出ても報われない「士業」の声
士業という肩書きがあっても、それで自動的に敬意がもらえる時代ではない。特に司法書士は、一般的な認知度が高いとは言えず、説明から始めることも多い。こちらが専門的に話そうとしても、すぐに打ち切られたり、興味を持たれなかったりする。名刺の肩書きより、話し方と見た目の印象がすべて。そんな現実に、少し心がすり減る。
専門家としての発言も、聞いてもらえるとは限らない
例えば相談会に参加したとき、登記の相談に専門的な回答をしても、相手の反応は「ふーん」で終わることがある。逆に「最近YouTubeで見たんですけど…」という話には食いつく。こちらは根拠ある説明をしても、ネット情報の方が説得力を持ってしまう世の中。それがわかっていても、やっぱり虚しい。
「それって行政書士じゃないの?」って言われがち
このフレーズ、もう何度言われたかわからない。「それ、司法書士の仕事でしたっけ?」と。中には「行政書士とどう違うんですか?」と毎回聞かれる方もいて、そのたびに説明してはモヤモヤする。別に行政書士を悪く言いたいわけじゃない。ただ、自分の仕事が理解されないまま流されるのが、悔しいだけなのだ。
説明するたびに削れていく自己肯定感
「説明しても理解されない」ことが続くと、自分の仕事への誇りが少しずつ薄れていく。言葉にしても届かない。知識を持っていても伝わらない。そんな経験が積み重なると、「何のためにやっているのか」とすら思えてくる。誰かのために頑張っているつもりでも、それが伝わらなければ存在していないのと同じではないか、そんな気さえしてくる。
じゃあ、どうすればよかったのか
ここまで書いておいてなんだけど、たぶん答えは出ない。でも、共感してくれる誰かがいるだけで少し救われる。だから僕は今日も、小さな声で呟くように記事を書く。届くかはわからない。でも、印鑑より少しでも重みのある言葉になっていたらいいなと、そう思っている。
声を大にすることに意味はあるのか
「もっと強く言わないと」「はっきり主張しなよ」と助言されることがある。でも、それができていればとっくにやっている。優しい性格の人間が声を張るのは、思っている以上にエネルギーがいる。声を大にすることで失う自分もいる。だからこそ、自分のままでどう発信できるかを考えるしかない。
「正しいこと」より「ウケること」?
最近は、正論よりもウケる話のほうが広まる。SNSでもバズるのはキャッチーな言葉や、感情に訴える一言。地道な説明や正確な内容は、なかなか届かない。でも、司法書士という立場で発信する以上、間違ったことは言えない。だからジレンマになる。ウケを取るか、誠実でいるか。そのバランスをどう取るかが、悩ましい。
共感力を鍛えるしかないのかもしれない
話し方や声量ではなく、共感で人の心に届く言葉があるなら、それを身につけたいと思う。僕は口下手かもしれない。でも「わかるよ」と言ってくれる誰かの一言で、救われる経験もあった。だから今度は、僕が誰かに「わかる」と言える人になれたらと思う。存在感はないかもしれないけど、誰かの心にちょっとだけ届く声を出せるようになりたい。