白すぎるカレンダーを見て、心が少し痛くなる
デスクの横にかけてあるカレンダー。毎月、月初めには予定を書き込もうと意気込むけれど、書くことがない。予定の欄が真っ白で、まるで誰にも必要とされていないような感覚に襲われる。仕事はある。書類も山積み。でも、誰かと「会う」予定がまったくないというのは、精神的になかなか堪える。忙しいはずなのに、妙に孤独。そんな矛盾した感情を抱えながら、今日も予定表は静かに壁にぶら下がっている。
予定がない=人と関わっていない、そんな気がしてしまう
予定がないということは、単に「暇」だという意味ではない。人とのつながりがない、誘われない、自分からも誘えないという現実を突きつけられるようで、胸がざわつく。司法書士という仕事は、誰かの人生の節目に関わることも多いはずなのに、自分自身の人生はただ淡々と時間が流れている。誰とも接点のない日が続くと、社会の中に自分の居場所がないような、そんな錯覚に陥ることがある。
忙しいのに、なぜか空っぽな毎日
事務所の電話は鳴るし、書類の締切もある。登記の依頼もぽつぽつ来る。でも、どれも「淡々」としているのだ。ルーティンのようにこなす日々は、効率的ではあるけれど、何かが満たされない。頭は使っているのに、心が動かない。忙しさはあるのに、手応えがない。予定が埋まっていないからではなく、予定の中に“感情”が含まれていないからこそ、空っぽに感じるのかもしれない。
仕事はあるけど「私用」がない現実
カレンダーに書かれているのは、「定款認証」や「抵当権抹消登記」ばかり。プライベートな予定は皆無だ。友人と飲みに行く日も、映画の予定も、恋人と過ごす記念日も…そんなものはもう何年もカレンダーに存在していない。予定が仕事だけで埋まっていると、一見充実しているように見えるけれど、それはまるで機械のような生活だ。少しくらい、心が躍る予定も欲しいと思ってしまう。
土日がくるのが怖い、予定がない休日の憂鬱
世間が待ち望む週末も、独り身の私にとっては試練のような時間だ。予定がないという事実が、静かに重くのしかかってくる。テレビの中では家族連れがピクニックに出かけ、SNSでは友人たちが旅行や食事の写真を投稿している。そんな光景を眺めながら、自分は洗濯物を干して、コンビニ弁当で昼食を済ませ、誰とも言葉を交わさずに一日が終わっていく。
やることは山積み、でも誰にも会わない
週末には、平日にはできない雑務が山のようにある。古いファイルの整理や、経費の精算、雑誌の廃棄など。むしろ平日よりもバタバタしている気すらする。でも、それらはすべて“ひとりで完結する作業”なのだ。誰とも会わず、会話もせず、ただ黙々とやるだけ。自分の声を最後に出したのは、いつだったか。そんな孤独感に、日曜日の午後は特に襲われる。
気づけば声を出していない週末
話し相手がいない週末は、本当に声を出す機会がない。テレビに話しかけることもないし、電話も鳴らない。スーパーのレジでも「袋いりません」すら無言でジェスチャーで済ませてしまう。ふと気づくと、土日で一言も発していないことに気づくことがある。人はこんなに静かに過ごせるものなんだと、感心すらしてしまう。でも、それは本当に望んでいる姿だったのか、自問する。
司法書士という仕事は、意外と孤独だ
法律という「枠」を扱う仕事は、ときに人間関係を薄く感じさせる。たしかに依頼者は来る。話もする。けれどそれは必要最低限のやりとりであり、互いの内面に踏み込むような関係ではない。事務的で、距離がある。だからこそ、仕事中は誰かと接しているはずなのに、心はずっと一人だと感じる瞬間がある。
相談されることはあっても、相談できる相手がいない
登記や相続の相談をされることは日常茶飯事だ。でも、自分が抱えている悩みを誰かに相談することは、ほとんどない。職業柄、感情を出すことはあまり良しとされない風潮もあるし、そもそも聞いてくれる人がいない。事務員さんにもプライベートはあるし、愚痴を言うのは気が引ける。だから、気づけばどんどん心に溜め込んでしまう。
事務員さんがいるだけマシ…でもそれでも
うちの事務所には長く勤めてくれている事務員さんが一人いる。実務の相談はできるし、仕事を丁寧に支えてくれる大切な存在だ。でも、だからといって休日にご飯に行くような関係ではないし、互いに適度な距離を保っている。それは大人として正しいのかもしれないけれど、ときどき無性に「誰かと雑談がしたい」と思うことがある。
「カレンダーが埋まらないこと」への焦りとあきらめ
若いころは、予定が少ない日があると「まあたまにはゆっくりしよう」と思えた。でも今は違う。カレンダーが空白だと「このまま誰とも関わらずに人生が終わるのでは」と焦ってしまう。焦ってはみるものの、何をすればいいかもわからず、結局何もせずにまた1ヶ月が終わる。予定の少なさは、自分の人生の価値にまで影を落とすようになる。
他人と比べてしまう日々—SNSの予定投稿が刺さる
SNSは他人の予定で溢れている。友人の家族旅行、同業者の勉強会、仲間とのバーベキュー…「ああ、自分だけが取り残されてる」と思ってしまう。自分だって過去には飲み会や集まりに顔を出していた。けれど気づけば誘われなくなり、自分からも連絡をしなくなった。そして今、誰の投稿にも反応できずに、そっと画面を閉じる日々だ。
「リア充」ではなく「日常」が欲しいだけなのに
別にキラキラした予定が欲しいわけじゃない。ただ、誰かと「今度いつ会う?」と話せる日常があればそれでよかった。特別なイベントなんかじゃなくていい。月に一度、一緒に定食を食べるだけの関係でもいい。でも、それすら叶わないのが現実だ。だからこそ、白いカレンダーがこんなにも重たく感じてしまうのだろう。
それでも、白いカレンダーにも意味があるかもしれない
こんなふうに愚痴っぽくなる日もあるけれど、それでも白いカレンダーを眺めながら、「じゃあ、これからどんな予定を作っていこうか」と自分に問いかけることもある。誰かと比べるのではなく、自分のペースでいいと思える日もある。空白をどう埋めるかではなく、どう活かすか。そんな考え方も、少しずつできるようになってきた。
空白の中にしか見つけられないものもある
誰とも会わず、誰からも誘われない日。でもその静かな時間に、自分の心を深く見つめ直すことができる。カレンダーが真っ白だからこそ、本当に大事なことに気づける瞬間もある。もし今日、誰とも会わなかったとしても、それが明日の自分の糧になるなら、少しだけ報われた気がする。
予定を入れることより、心を満たすこと
カレンダーを埋めることが目的になってしまうと、疲れる。無理に予定を詰め込んでも、心が置き去りになる。それよりも、「この時間をどう過ごせば、自分が少しでも満たされるか」を考えるようになった。読書でも、散歩でも、昼寝でもいい。誰かと会う予定がなくても、自分をちゃんと扱ってあげる予定なら、それも大切な一日だと思えるようになってきた。
誰かのために忙しい日々が、自分を救っている
登記の仕事は感情を排した作業に見えるかもしれない。でも、その先には「家を建てる人」や「遺産を受け継ぐ人」がいる。誰かの人生の一部を支えているという実感が、日々の小さな救いになっている。カレンダーに予定がなくても、自分の仕事が誰かの生活の中に存在しているなら、それは十分意味のあることだと信じたい。