家族の名前が並ぶ戸籍の中に、自分の存在を見失う
戸籍を扱うのは司法書士として日常茶飯事。何百通も見てきた。けれど、ふとした拍子に自分の戸籍を見直す機会があって、心にひっかかるものがあった。そこには、両親の名前と、そして僕の名前。たった三行。それだけの構成に、自分の存在の薄さを痛感した。名前は確かにそこにある。でも、そこから何も感じない。「この人たちは本当に自分の家族だったんだろうか」と思ってしまった。書類上の関係と、心の距離のギャップ。司法書士として他人の戸籍を扱うたびに、そんな気持ちを抱えたまま仕事をしている。
書類の扱いに慣れているはずの自分が、ふと手が止まった
戸籍の写しを見て涙ぐむ依頼者は少なくない。誰かの死を受け入れたくない人、複雑な家庭の事実に直面した人。そのたびに僕は冷静な顔で対応してきた。なのに、自分の番になると、あんなにも薄っぺらい紙の前で手が止まってしまったのだ。両親と僕、三人だけの戸籍。それ以外には何も書かれていない。静かすぎる。まるで、この紙は誰にも見られることを前提にしていない秘密のようだった。司法書士としての経験が、自分の孤独を逆に浮かび上がらせてくる皮肉な瞬間だった。
戸籍は「関係」を示すけれど、「絆」までは書いてくれない
法的なつながりは確かに大事だ。相続、婚姻、離婚、すべては戸籍が証明する。でも、それはあくまで制度の枠組みの話。そこに愛情があるか、思い出があるかなんて、記されていない。僕の父は寡黙な人で、母は家を空けがちだった。口をきくことも少なかったし、家族写真もない。そんな人たちの名前と一緒に並ぶ自分の名前が、どうしても居心地悪く感じた。「家族」の定義が、戸籍の文字数で決まるなら、それはあまりにも味気ないと感じずにはいられなかった。
司法書士という仕事がくれる「孤独」の時間
この仕事は人と接するようでいて、実はずっとひとりで戦っている。依頼を受けて、書類を整え、法務局に届ける。誰かと心を通わせる場面なんて、ほとんどない。だから、孤独と向き合う時間が強制的にやってくる。事務所の静けさが、時に自分の感情を増幅させる。誰も話しかけてこないし、自分も誰にも話しかけない。孤独が嫌いなわけじゃない。でも、こうして年を重ねると、その時間が重たくのしかかってくる日がある。
誰とも関わらずに進められる作業が、時に救いでもあり、毒でもある
黙々と書類を作る作業は、頭を空っぽにするにはちょうどいい。人と揉めることもないし、自分のペースで進められる。けれど、それが長く続くと、声の出し方すら忘れてしまう。たまにコンビニで「温めますか?」と聞かれても、うまく返事ができない日がある。このまま誰とも会話しない人生を送るんじゃないかと、ふと不安になる。司法書士という仕事の静けさは、心にとって優しくもあり、危うさも孕んでいる。
雑談もなく、事務員と最低限のやりとりで終わる1日
うちの事務所は事務員さんがひとりだけ。彼女はとても真面目で、仕事はきっちりこなしてくれる。でも、雑談ができるタイプじゃない。こちらから話しかけても「はい」「了解しました」で終わってしまう。かといって責める気にもならない。むしろ、自分が話すことに疲れてしまったのかもしれない。誰かに興味を持つ余裕もなくなってきているのだろう。ただ、夕方になってパソコンの電源を落とすと、「今日、誰ともちゃんと会話してないな」と思い知らされる。
事務所に人はいるのに、心はどこにもいない感じ
目の前に人がいても、それだけでは孤独は癒されない。形式的な会話、業務連絡、表情のないやりとり。そういう日々が積み重なると、感情が錆びていくような気がする。たまに笑顔で話しかけてみても、どこか空回りしてしまう。そのたびに、自分のコミュニケーション力のなさを思い知る。そしてまた黙る。その繰り返し。事務所という空間は、働く場所であると同時に、僕に自分の弱さを突きつける場所でもある。