「やっと終わった」のはずなのに、なぜ心が晴れないのか
案件がひとつ、またひとつと片付いていく。机の上も少しずつ整っていく。事務員が「お先に失礼します」と帰っていく頃には、今日のタスクもほぼ終わっている。でも、心は晴れない。達成感というより、妙な虚無感。まるで大掃除をしたあとにぽっかり空いたリビングのように、落ち着かない。何かを終わらせるたびに、心のどこかが置き去りになる感覚に襲われる。
終わらせることが目的になっていないか?
日々の業務に追われていると、「どう終わらせるか」が全てになってくる。丁寧にやっても雑にやっても、終わらせてしまえば次の案件が待っている。でも、ふとした瞬間に思う。「この仕事って、やっていて本当に意味があるのか?」と。登記が通った、相続の相談がうまくいった、それなのに心が喜ばない。それはたぶん、終わらせることが目的になりすぎて、プロセスの意味を失っているからかもしれない。
事務員が先に帰ったあとの沈黙
事務員が「じゃあ、明日また」と笑って帰ったあとの事務所。時計の秒針がやけに大きく響く。プリンターの電源を切った後の静寂は、まるで誰もいない体育館のような寂しさだ。たった一人で、書類をファイルに戻しながら「俺、今日何してたっけな」とつぶやく自分がいる。充実とは、程遠い。
テレビをつける気力もない、ただの静けさ
帰宅して、ソファに座る。リモコンには手が伸びない。ニュースを見る気も、バラエティで笑う気力もない。部屋は静まり返り、外から時折聞こえる車の音だけが唯一の“生活音”。自分の存在すら薄く感じるような、そんな夜が月に何度もある。別に泣きたいわけじゃない。ただ、何も残っていない感じがするだけ。
忙しいときは「あれが終わったら楽になる」と思っていた
繁忙期には「あれさえ終われば少しは楽になる」と自分に言い聞かせてきた。でも、実際その山を越えると、心は軽くなるどころか、逆に重くなる。「次は何をすればいいんだろう」「明日はもっと不安になるのでは?」と、落ち着かない自分がいる。何かを片付けるたびに、次の穴が空く。
山を越えた先にあるのは、案外“平地”ではない
仕事の山場を越えた先に待っていたのは、平穏でも解放でもなかった。むしろ、どこまでも続く“平地”のようなだだっ広い無感動。心のギアが抜けたまま、ただ時間が流れていく感じ。これが欲しかったはずなのに、得た瞬間に「もういらない」と思ってしまう。皮肉なものだ。
ご褒美がない毎日に、何を求めていたんだろう
昔は「この仕事が終わったらビールを飲もう」とか、小さなご褒美を自分にあげていた。今はどうだ。仕事が終わってもコンビニに寄る気力も湧かない。帰ってそのまま布団に倒れ込むだけ。いつの間にか、ご褒美がご褒美でなくなり、日々がただ“こなすもの”になってしまった。何のためにやっているんだろうと、問うことすら面倒になる。
一人暮らしだと、終業後がただ虚無
実家暮らしだったころは、帰れば誰かがいた。話しかける相手がいた。今は違う。玄関を開けても反応はない。鍵を閉め、靴を脱ぎ、誰に気を使うこともなく冷蔵庫を開ける。ただ、それが寂しい。好きで一人でいるわけじゃない。誰かと共有できる瞬間がないのが、つらい。
癒しを求めてアマプラを徘徊する日々
日課のようにAmazonプライムビデオを開いて、何か“良さげな癒し”を探す。でも結局観ない。選ぶだけで疲れて、気づけば寝落ちしている。何が見たいわけでもない。ただ、何かで空白を埋めたいだけ。でもその空白は、動画じゃ埋まらないことを知っている。
「この感じ、俺だけじゃないはず」と思いたくて
こういう感情、きっと他の司法書士も経験しているんじゃないかと思う。孤独と隣り合わせの職業。自分の弱さを出せる場もないまま、淡々と処理をこなす日々。同じように、仕事が終わった後にぽっかり心が空く人は少なくないはずだ。
同業の友人も「終わったあとが一番つらい」と言っていた
数少ない司法書士の友人が言った。「忙しいときはいいんだよ。考えなくてすむから。終わると地獄なんだ」。その言葉に、妙に救われた。「あ、自分だけじゃないんだ」と思えたことが、救いだった。共感というのは、それだけで支えになる。
司法書士の仕事って、心の置き場が見つからない
感謝されることもある。でも、それを受け止める心が疲れているときは、「ありがとうございます」がプレッシャーに聞こえてしまう。人と接するけれど、深く関わるわけではない。どこか表層的なやりとりばかりで、心が浮いたままになることも多い。そういうとき、どこに感情を置いていいか分からなくなる。
どこかに“誰か”を求めてしまう夜
自分は独身だ。モテないのも自覚している。だからこそ、誰かと笑い合う時間が欲しいと強く思う。仕事が終わって、一人で食事をして、風呂に入り、寝る。そのサイクルが悪いわけじゃない。でも、どこかで“他人の気配”を求めている。
独身の司法書士、恋愛以前に会話がない
恋愛したいかと言われると、そういう欲求はもうぼやけてきている。でも、会話がないのは堪える。誰かと冗談を言い合ったり、「今日寒いね」とか、「疲れたね」と他愛ない話を交わせる関係が、どれほど貴重か。仕事上のやりとりでは埋まらない心の隙間が確実にある。
モテないのは知ってる。でも誰かと笑いたい
ルックスもトークもイケてない。自分のことを“面白い”と思ってくれる人はきっと少ない。それでも、誰かと一緒に笑いたいという気持ちは、ずっと変わらない。くだらない話でも、無駄話でも、誰かと分かち合う時間が欲しい。ただ、それが難しい。
「あんた忙しそうね」と言われるだけで救われる
ふと立ち寄ったコンビニで、顔なじみの店員さんが「最近遅いね」と言ってくれるだけで、なんとなく報われた気がする。誰かが自分の存在に気づいてくれている。それだけで、「今日も頑張った」と思える。それくらい、人との関わりに飢えている。
小さなルーティンで心を繋ぎ止める
何もしないと沈んでしまう。だから、小さな習慣をいくつか作っている。朝は缶コーヒーを飲む、帰宅したら机を拭く、寝る前に一言日記を書く。意味があるかは分からない。でも、それをすることで「今日もなんとか生きた」と思える。
コーヒーを淹れる、散歩をする、でも…
散歩をしても、何かが劇的に変わるわけじゃない。缶コーヒーを飲んでも、気持ちが晴れるわけじゃない。でも、繰り返すことで何かが保たれている気がする。「いつも通り」でいることが、心の安定につながっているのかもしれない。
意図的に「何もしない時間」を作ることの意味
スマホも見ず、テレビもつけず、ただ静かに座っている時間。最初は落ち着かなかったけれど、慣れるとそれが癒しになった。心の声がうるさいときこそ、無音の時間が必要だと感じるようになった。
“空虚さ”に向き合って初めて見えるもの
避けてきた感情に向き合うことで、少しずつ見えてくるものがある。「寂しい」と言える自分、「疲れた」と言える自分。そのままの気持ちを受け止めることが、案外いちばんの癒しなのかもしれない。誰かの役に立ちたいという気持ちも、本当はずっとあったのだ。
本当は、仕事に逃げていたのかもしれない
忙しくしている間は、自分の孤独や不安に気づかずにいられた。だから、無意識に仕事で埋め尽くしていたのかもしれない。だが、それは一時しのぎでしかなかった。片付いたあとに残る空虚さが、それを教えてくれた。
一人の時間がつらいのは、誰かと分かち合いたいから
人は、孤独に強くなれると思っていた。でも実際には、誰かと感じたことを共有することで、心は軽くなる。司法書士という仕事は孤独を抱えやすい。でも、孤独だからこそ、同じように頑張っている人の存在が支えになる。だからこうして、書いている。