「気楽ですね」に込められた、ちいさなトゲ
「一人って気楽ですね」――そう言われるたび、笑顔で頷くものの、胸のどこかがチクっと痛むのです。たしかに気楽です。誰に気を遣うこともなく、夕食のメニューも寝る時間も、好きに決められる。でもその自由の代償として、誰かと分かち合う時間や感情も、すっぽり抜け落ちていることに気づくときがあります。特に、仕事がひと段落した週末の夜、ふと空気が冷たく感じる瞬間。静けさの中に紛れる孤独の輪郭に気づいてしまうのです。
一人でいる自由と、選んだわけじゃない孤独
一人でいるのは、心地よい部分もあります。仕事で疲れ切って帰った夜、誰にも文句を言われず風呂も食事もスキップして寝てしまえるのは、正直ありがたいです。でも、それを「望んで選んだ」と言い切れるかと聞かれれば、たぶん違う。かつては誰かと暮らす未来も想像していましたし、結婚も意識した時期がないわけではない。でも、気づけば独り。忙しさを言い訳にして、人と関わる勇気を後回しにしていた結果かもしれません。
誰にも気を遣わない生活、それが幸せかと聞かれると
朝起きて、弁当を買って、書類を確認して、登記簿とにらめっこ。仕事を終えれば、スーパーに寄ってカット野菜とパックの煮物を選ぶ。そんな毎日が、もう何年続いているでしょうか。「気を遣わずに済む」という言葉は、聞こえはいいけれど、誰かと感情をやり取りする喜びまで手放している気もします。例えば、どうでもいいテレビ番組を観ながら他愛のない話をする時間――ああいうのって、意外と心を救ってくれるんですよね。
コンビニのレジで交わす「温かいですか?」が妙に沁みる
ある冬の夜、コンビニで肉まんを買ったときのこと。「温めますか?」と聞かれて、「お願いします」と答えた瞬間、なぜか胸がぐっと詰まりました。会話らしい会話を、その日誰ともしていなかったことに気づいたからです。レジの若い店員さんの声が妙に優しく感じて、それだけで心が揺れるのです。そんな自分に気づいて、ちょっと情けなくもあり、でも確かに、誰かと言葉を交わすことの大切さを感じた瞬間でした。
司法書士という仕事と、孤独耐性
司法書士という仕事は、基本的に黙々と処理を積み上げる業務が中心です。顧客対応ももちろんありますが、どちらかというと対人というより書類との対話のほうが多い。人と深く関わる職業ではあるけれど、関わった後の孤独な作業の方が何倍も多い。それに慣れたのか、耐性がついたのか、自分の時間にこもることが平気になってしまいました。でもそれが、人生の豊かさにつながっているかどうかは…正直わかりません。
誰かと喜び合う暇もなく、案件に追われる毎日
最近、登記業務や相続関連の相談が急増しています。特に高齢化社会の影響か、遺言や家族信託の依頼も増えました。ありがたいことではありますが、そういった案件に関わるたびに思うのです。「この方は誰と過ごしてきたのだろう」と。喜びも悲しみも、誰かと分け合える人がいたのか。自分自身に照らし合わせたとき、同じように歳を取ったとき、誰かと笑えるのか不安になります。案件に追われる毎日は、そんな想像を振り払うようにただ過ぎていきます。
「頼れる人がいる」なんて、ドラマの話
よくテレビドラマで、仕事帰りに飲みに行って愚痴を聞いてくれる同僚が出てきます。でも、現実は違います。地方の司法書士事務所なんて、私と事務員一人。相談できる仲間もいなければ、帰り道に寄る居酒屋もありません。誰かに頼れる日常なんて、都市伝説のように感じます。同業者と繋がろうと思えば繋がれるのでしょうが、気力が残っていない。独りで黙々と処理して、独りで結果を飲み込んで、また次の案件に向かう。そんな毎日です。
ひとり飯、ひとり決裁、ひとり残業
今日も昼は、事務所の奥でひとりで冷たいそばをすする。郵便物を確認して、登記の確認をして、法務局への提出準備。すべて私一人で完結する仕事。誰にも確認されず、誰の評価もなく、ただ進める。ひとり決裁の気楽さはあるけれど、それは裏返せば誰も頼れない、ということ。ミスをしても自分の責任。残業も「お疲れさま」と言ってくれる相手がいない。ただ、事務所の蛍光灯が、無音で自分を照らしているだけです。