頼られることが、つらく感じた日。──司法書士という肩書の裏で

頼られることが、つらく感じた日。──司法書士という肩書の裏で

「頼りにされている」はずなのに、苦しくなるときがある

司法書士という仕事は、表向きは信頼される立場にある。地元の方々から「先生」と呼ばれ、悩み事や手続きの相談に乗るたびに「助かりました」と感謝される。でも、その言葉が心に沁みるどころか、ある日ふと、妙に重く感じる瞬間がある。「ありがとう」の裏にある期待、「先生だから大丈夫でしょ」という言外の圧力。それが、じわじわと心にプレッシャーとして積もっていく。気づいたときには、頼られること自体がしんどくなっていた。

感謝されるのに、心が軽くならない矛盾

「頼ってもらえるって嬉しいことですよね」──そんな言葉を何度も聞いてきた。たしかに、最初は嬉しかった。必要とされている実感、自分の知識や経験が誰かの役に立つという喜び。でも、だんだんと感謝の言葉が「報酬」ではなく「責任」に変わっていく感覚が出てくる。うまくいけば当たり前、失敗すれば「どうして?」。心のどこかで「もっと楽になりたい」と思っても、頼られている自分を裏切るようで口に出せない。

「先生だから大丈夫でしょ」と言われる重さ

ある日、土地の名義変更の相談に来た年配のご夫婦がいた。「詳しいことはわからないから、先生に任せます」と笑顔で言われた。その笑顔が、なぜか胸に刺さった。何もわからないことが悪いわけじゃない。でも、「先生がやってくれるでしょ?」という全幅の信頼は、ときに恐ろしいほど重たい。間違いがあっても許されない雰囲気、自分に全ての責任が集中する現実。気を張り詰める日々の中で、「先生だから」と言われるたび、少しずつ息が詰まっていった。

優しくしてきた分だけ、自分の逃げ場がなくなる

困ってる人に対しては、つい時間外でも話を聞いてしまう。夜7時を過ぎても電話を取ってしまう。そんなふうに“いい人”であろうとするうちに、「先生なら聞いてくれる」とどんどん相談が増える。優しさのつもりだった対応が、気づけば自分を追い込む習慣になっていた。疲れていても、無理して笑って、応じてしまう。「もう限界です」と言えないのは、自分の甘さかもしれない。けれど、誰かに弱音を吐くことすら怖いのが本音だ。

誰かの期待が、自分を縛る鎖になる

頼りにされることで、自分の存在価値を確かめてきたところがある。それが悪いことだとは思わない。でも、頼られるからには応えなければ──そう思い詰めるほどに、だんだん自由がなくなっていく。誰かの期待に応えることが、自分の首を締めるような感覚。期待されるほど、プレッシャーが膨らんで、自分の本音や限界を押し込めてしまう。「先生、信じてますから」という一言が、まるで鎖のように感じる日もある。

「頼られている=答えなきゃいけない」の呪縛

例えば、法定相続情報一覧図の作成を頼まれたとき。依頼者は当然のように「いつごろできますか?」と聞いてくる。こちらにも他の案件や期限があるのに、「急ぎじゃないんで」と言われつつ、暗に「すぐやってね」と読み取れる口調に疲れる。誰にも断れない性格が災いして、全部引き受けてしまう。その結果、自分の時間が削られていく。頼られるたびに、自分で自分の首を絞めてるような気分になる。

事務員もいるけど、結局すべてが自分に返ってくる

一人事務員がいてくれるのは本当にありがたい。でも、どれだけサポートしてもらっても、司法書士としての責任は最終的に自分に降りかかってくる。決済立ち会いのプレッシャーや登記ミスのリスクは、誰にも肩代わりできない。事務員さんのミスだとしても、「責任者はあなただから」と言われる現実。結局、孤独と隣り合わせの立場だということを、痛いほど感じる。だから、責任のない雑談のひとつが、時々とても恋しくなる。

地方の司法書士という現実

都会と違い、地方では司法書士に求められる業務の範囲がとにかく広い。「何でも屋」みたいな存在にならざるを得ない。登記だけじゃなく、相続、遺言、成年後見、さらにはちょっとした法律相談まで……。断ったら二度と依頼が来ないかもしれないと思うと、つい引き受けてしまう。そんな日々が続くと、「自分は誰のために働いてるんだろう?」という虚しさがこみ上げてくる。

案件の幅広さがプレッシャーに変わる

たとえば、午前中に会社設立登記、午後は相続登記の立ち会い、その後すぐに裁判所提出書類の作成。これが一日で全部重なることもある。どれも性質も期限も異なり、頭を切り替えるだけで疲労が倍増する。なのに、「先生ならできますよね」と言われると断れない。自分を買ってくれるのは嬉しい。でも、それが続くと、「こっちが壊れる前に誰か気づいてくれよ」と叫びたくなる。

登記、相続、裁判書類…何でも屋じゃないけど、何でもやる

ある週は、月曜に家族信託、火曜に抵当権抹消、水曜は裁判所へ提出する成年後見の報告書。その合間に新規の相続相談が数件。書類作成、確認、提出、相談対応、すべてがバラバラな性質で、気持ちが休まる瞬間がない。しかも全部「正確に」「早く」「安く」求められる。こっちの都合なんて誰も気にしてない。いつのまにか、自分の存在がただの便利屋みたいに感じてしまうときがある。

「先生が頼りです」の一言が、どれだけ重たいか

悪気はないのは分かってる。でも「先生しかいないんです」「頼れるのはあなただけ」と言われるたび、心のどこかが苦しくなる。最初はやる気になるけれど、それが連続すると「一人で背負ってる」という孤独が強くなる。実際は、何も言わずに我慢してるだけなんだけど、それに気づかれたら「そんなの言ってくれればいいのに」って返されるのもまた辛い。言えないから、ここまで来てるのに。

相談が増える=自分の心が削られる

無料相談、電話対応、LINEでの問い合わせ。便利なツールが増えたぶん、常に“対応中”でいなければならない空気がある。以前、休日にスーパーで買い物をしていたとき、依頼者に声をかけられた。「急ぎで聞きたいことがあって」──結局、その場で20分ほど立ち話。休日という感覚がなくなっていく。そのたびに、「頼りにされてる」の言葉が、自分の居場所をどんどん削っていく気がしてくる。

親身になるほど、夜眠れなくなる

相談者の話を真剣に聞けば聞くほど、心に残ってしまう。特に相続トラブルや家庭のもめごとは、簡単に答えが出ないことも多い。夜、布団に入っても「あの人、どうなったかな」「あの言い方でよかったかな」と考えてしまう。責任感が強いのか、ただの心配性なのか、わからない。ただ、よく眠れない夜が増えるたび、「頼られる=ずっと誰かのことを考えてる自分」に気づいて、少し怖くなる。

本当はただ「黙って誰かに頼りたい」

愚痴を言える相手がほしい。何も聞かずにそばにいてくれる誰かがほしい。そう思うことがある。頼られることが多いほど、こちらが誰かを頼るという行為が許されない気がしてしまう。でも本当は、誰だって弱さを抱えている。ただ司法書士という肩書のせいで、その弱さを見せる機会を失っているだけ。たまには、「今日、ちょっとしんどいんだよね」と言える場所があってもいいと思う。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。