飲み会が苦手になった理由は「話題」だった
仕事終わりの飲み会。昔はそれなりに楽しんでいたつもりだったが、いつの頃からか、その時間がしんどく感じるようになった。理由を探っていくと、どうやら「話題」についていけない自分に気づいたのが始まりだった。周囲が盛り上がる中、自分だけぽつんと取り残されているような感覚。酒のせいにして笑ってごまかすこともあったが、実のところ、笑いの輪の中に自分の居場所がないと感じていた。
笑いのツボがずれているという自覚
話題のテンポが速い。テレビのバラエティ番組やYouTubeの人気動画、芸人のネタやSNSでの流行語。どれも、自分にはまったくピンとこない。周囲が爆笑していても、何が面白いのか理解できない。だから、笑えない。笑っているフリも疲れる。ある飲み会で「◯◯のモノマネやって!」と急に振られたとき、そもそもその芸人すら知らなくて、変な空気になった。あの瞬間、心の中で「もう無理だ」と思ってしまった。
テレビもネットも見ない生活
日々の業務に追われ、気づけばテレビの電源すら入れなくなった。ネットも調べもの中心で、エンタメ系はまったくノータッチ。時事ネタすら詳しくないのに、流行ネタなんて当然知らない。司法書士の仕事はどうしても真面目な文書や法律に囲まれがちで、世間の軽やかな話題との距離がどんどん開いていく。意識的に情報を仕入れるべきなのかもしれないが、そんな余裕も気力もないのが現実だ。
最近の流行がまったくわからない
「◯◯って見た?」「流行ってるよね」と言われても、わからないことが多すぎる。スマホの中にはカレンダーアプリと法務局のリンクしかない。TikTokで流行ったネタ?芸人の名前?知らないことが次々に出てくるたびに、会話についていけない自分が恥ずかしくなる。そのうち、何を話しても「置いてけぼり感」が残ってしまい、無口になる。飲み会で孤独を感じる瞬間が増えていった。
それでも付き合いとして断れない
田舎の事務所だからこそ、地元の関係性も大切にしたいと思っている。町内の集まり、士業の定例会、商工会の飲み会。顔を出すのが“大人の義務”みたいになっている。でも、ただ座っているだけで、会話に入る気力も湧かない。無理に話題に合わせようとしても、会話の歯車がかみ合わない。居心地の悪さだけがどんどん積もっていく。
「来ないと浮くよ」と言われる空気
「たまには出てこないと!」と声をかけられる。善意なのはわかる。でも、「出てこないと変な噂立つよ」なんて言葉が頭をよぎると、無理してでも参加するしかない。内心では「出たくないな」と思っていても、義理や関係性を優先してしまう自分がいる。でもそれは、自分の中の「寂しさを見せたくない」というプライドかもしれない。
黙って座っているだけの時間
話題に入れず、笑いにも乗れず、ただ黙って座っている。手元のグラスを眺めては、タイミングを見てトイレに立つ。戻ったら席替えされていて、さらに話についていけない。スマホを見れば「感じ悪い」と思われそうで、見れない。こんなときに限って隣の人が一番盛り上がってるメンバーだったりする。もう帰って布団にくるまりたい、そんな気持ちを押し殺して「ハハハ」と笑うフリをする。
司法書士という仕事が会話を遠ざけたのか?
もともと社交的なタイプではなかったが、司法書士という仕事をしてから、人との距離がさらに広がった気がする。毎日が書類と締切の戦い。人と話すのは相談の場か、役所とのやり取りばかり。気づけば雑談力が枯れていた。話す機会が減れば、聞く力も弱まっていく。結果、飲み会の会話にも入れなくなっていく。
世間話をする余裕すらなくなる日々
登記の期日、裁判所への提出期限、クライアントの急な相談。毎日、緊張感を抱えたまま過ごしている。そんな中で、テレビやSNSを見る余裕はない。ニュースもネットも業務に関係する情報だけ。たまの休日も疲れ果てて寝てばかり。世間の「楽しそうな話題」から、どんどん置いていかれてしまう。
朝から晩まで書類と向き合う現実
司法書士の仕事は地味だ。依頼内容を丁寧に確認し、書類を揃え、チェックして、提出。ミスがあれば信用問題に関わる。そう思うと気が抜けない。1日中パソコンに向かい、声を出すのは電話対応か来所のあいさつくらい。誰かと“雑談”を交わすという習慣が、いつの間にか消えていた。
たまの会話も業界用語だらけ
仮登記、相続登記、成年後見。たまに話す会話も、業界にしか通じない言葉ばかりで構成される。気づけば、普通の話題が苦手になっていた。「面白かった映画ある?」と聞かれても、最近は映画館にも行っていない。気がつけば、自分だけ別の“言語”で生きているような感覚に襲われる。
「知らないことが恥ずかしい」と思ってしまう自分
わからない話題が出ると、つい「それ何?」と聞くよりも黙ってしまう。それが2回、3回と続くうちに、「自分だけが時代遅れなんじゃないか」という不安が広がる。恥をかきたくない。でも、知らないことを恥ずかしがって黙る自分もまた、情けないと感じる。
無理して笑う自分が情けない
わからない話題にも、合わせて笑ってしまう。空気を壊したくないから。でも、内心では「どうして俺はこんなことも知らないんだ」と責めている。そうやって無理して笑う自分を、さらに嫌いになってしまう悪循環。笑っているはずなのに、どこか苦しい。
共通の話題がないという絶望感
人と人がつながるには、共通点が必要だ。ところが自分には、それがないように思える。年齢、趣味、暮らし方、すべてがズレている気がする。相手に合わせて話題を拾うのも疲れる。だったらもう、誰とも関わらないほうが楽かもしれない——そんな考えが、ふと頭をよぎる。
少人数の“気が合う相手”とだけでいいと思い始めた
年齢を重ねるにつれ、「たくさんの人とつながる必要はない」と思えるようになった。気を使わずに話せる相手と、静かに酒を飲むほうがずっといい。話題を合わせるために頑張るよりも、無理せずいられる関係のほうが、自分にとっては救いだった。
無理して輪に入る必要はない
「みんなと仲良くしなきゃ」「話についていけなきゃ」なんて、誰が決めたのだろう。輪の中に入らない自由があってもいい。話題に合わないなら、聞き役に徹してもいい。無理に笑わなくても、誰かが自分を否定するわけじゃない。そう思えるようになって、少し楽になった。
一人を受け入れたとき、楽になる
飲み会でひとりになってしまう瞬間、それでも平気でいられる自分に出会えたとき、少しだけ救われた気がした。無理に話題に入らなくてもいい、ただそこにいればいい。そんなふうに思えるようになるまで、時間はかかった。でも今は、一人の時間も悪くないと思える。
話題を合わせなくても居られる関係のありがたさ
何もしゃべらなくても、気まずくならない人。流行の話なんて知らなくても、笑っていられる人。そんな存在は本当に貴重だ。数は少なくても、そういう関係が一つでもあるだけで、生きるのが少し楽になる。
共感よりも「沈黙の心地よさ」
黙っていても、気まずくならない時間。それがある人とは、特別なつながりを感じる。共感しようと無理に合わせるよりも、黙っていても理解されている気がする。沈黙の中にこそ、本当の安心感があるのかもしれない。
同じように感じている誰かへ
飲み会の話題についていけない、孤独を感じる、自分だけが取り残されている気がする。そんなふうに思ったことのある人は、きっと少なくない。この記事が、そんな誰かの心に少しでも寄り添えたらうれしい。
話についていけないのは、自分だけじゃない
みんなが盛り上がっているように見えても、内心では同じように不安や違和感を抱えている人もいる。自分だけがおかしいわけじゃない。話題についていけないことで、自分を責める必要なんてない。
表では笑っていても、心は孤独かもしれない
みんなが楽しそうに見えても、その裏で「早く帰りたい」「なじめない」と感じている人もいる。見た目だけではわからない孤独が、飲み会の席にはたくさんある。だからこそ、自分を守る優しさを持っていたい。
無理せず、でも無視しないで
話題についていけなくても、そこに居ようとする姿勢は大切にしたい。無理はしなくていい。でも、自分を閉じ込めてしまわないで。ほんの少しでも誰かの言葉に耳を傾けてみると、そこに何か小さな共通点が見つかるかもしれない。
自分を否定しない付き合い方を見つけよう
話題についていけない自分を責めるのではなく、「それも自分」と受け入れていくことが大切だと思う。合わない話題には無理に合わせず、心地よい距離感を探していく。自分を大事にしながら人と関われたら、それで十分だと思っている。