一度のミスが許されない日々に、心が擦り減っていく

一度のミスが許されない日々に、心が擦り減っていく

一度のミスが許されない日々に、心が擦り減っていく

司法書士という仕事には、派手なドラマ性はないが、その静けさの裏にとてつもないプレッシャーが潜んでいる。一つのミスが、依頼者の人生に多大な影響を与え、時には訴訟にもつながる。些細な書類の記載漏れ、印鑑の押し忘れ、日付の誤記…そんな些細なことが「取り返しのつかないミス」になる世界に、私は十数年身を置いている。正直、神経はすり減るばかりだ。今日も何か忘れていないかと不安で、寝つきが悪い。安心して深呼吸できる瞬間なんて、いつ以来だったろうか。

この仕事に「まあ、いっか」は通用しない

「人間だから間違えることもあるよ」と言ってもらいたい。でも、現実にはそんな慰めが効かない世界だ。司法書士の仕事には「まぁいっか」は存在しない。完璧でなければ、信頼を失う。信頼を失えば、次の依頼はない。依頼者にとって、こちらはプロ中のプロであり、「安心して任せられる存在」でなければならない。その重圧に押し潰されそうになることもある。とくに地方の個人事務所では逃げ場がない。自分しかいないという孤独と責任の重さが、ズシリと心にのしかかってくる。

小さな見落としが大きな損害に

かつて、不動産の所有権移転登記で、住所の番地を一つ間違えたことがある。登記完了後に依頼者から「なんか違う」と言われ、青ざめながら法務局へ急行した。修正できたからよかったものの、あの時の血の気が引く感覚は今でも思い出す。たった一文字のミス。でも、それが一つの家の所有者情報に関わるという現実がある。「こんなはずじゃ…」と膝が震えた夜を、私は一生忘れない。

過去にやらかした、胃が痛くなるようなミス

開業して3年目、相続登記の申請書類で、被相続人の死亡日を間違えて記載してしまった。提出してから2日後、ふとした瞬間に「いや待てよ…」と気づいて冷や汗が止まらなかった。何度も確認したはずなのに、思い込みで見落としていた。訂正申請でなんとか対応したが、あの時、依頼者にどう説明するか何度も練習した。夜中にひとり、鏡の前で「申し訳ございませんでした」と頭を下げる練習をしていた自分が情けなくて泣けてきた。

寝ても覚めても「あれ、大丈夫だったか…?」が頭をよぎる

寝ていても「あれ、あの書類の添付書類ちゃんとつけたか?」と飛び起きることがある。実際はつけてあるのに、不安が拭えない。朝イチで事務所に行って確認する、そんな日常がもう習慣になっている。仕事終わりに飲みに行っても、どこか頭の隅で書類のことを考えている。趣味に没頭できない。映画を観ても物語に入り込めない。人生が「確認作業」で塗りつぶされていく感覚がある。

ひとり事務所の孤独と責任の重さ

地方の個人事務所で、事務員さんと二人きりの環境。何かミスがあっても、最終的に責任を取るのは自分だ。事務員さんはとても真面目で丁寧だが、彼女にミスを押し付けることはできないし、したくない。だからすべてのチェックは自分でやる。たとえそれが夜中の作業になってもだ。責任を抱え込むことで、自分を守っているつもりなのかもしれないが、たまに「もうやめたい」と本気で思う瞬間がある。

誰にも弱音を吐けない、という呪い

司法書士の知り合いは何人かいる。でも、みんな自分のことで手一杯だし、悩みを打ち明けたところで「俺もだよ」で終わる。愚痴を言ってもスッキリしない。それに、同業者に弱みを見せるのが怖い。だから結局、誰にも相談できず、自分の中に押し込めてしまう。そうしてたまったストレスが、突然夜中に襲ってきて眠れなくなる。「呪い」と言ってもいいほどの閉塞感がある。

事務員さんにまで気を使ってしまう不器用さ

仕事が忙しいと、ついイライラしてしまう。でもそれを事務員さんにぶつけたくない。彼女の前では、いつも「大丈夫、大丈夫」と笑っている。でも、ほんとは大丈夫じゃない。自分の中でストレスの逃げ場がなくなっていくのがわかる。優しさってなんだろうと思う。気を使いすぎて疲れるのは、優しさなのか、ただの不器用なのか。

「頼れる人がいない」より「頼られない」のがしんどい

自分が困っても誰にも頼れないのはつらい。でもそれ以上に、自分が誰かに頼られないと感じる瞬間の方が堪える。孤独には二種類あって、「誰もいない」と「自分がいない」の違いだと思う。相談されない、頼られない、必要とされない——そんな感情が、気づかないうちに心をすり減らしていく。誰かの力になれた日は、ほんの少しだけ生きてる実感がある。

相談できないより、相談されないつらさ

昔はもう少し、頼られていた気がする。親戚や知人から「こういう場合どうすればいいの?」と聞かれることが嬉しかった。最近はそんな声すら少ない。ネットで何でも調べられる時代になったからかもしれない。専門家の存在が薄れていくことに、少し寂しさを感じてしまう。黙って仕事をしているだけじゃ、誰も見てくれない。そんな現実が、余計に心に刺さる。

人との距離感を間違え続けてきた結果

優しくしすぎた結果、なめられたこともある。距離を詰めすぎて、後悔したこともある。逆に壁を作りすぎて、関係が壊れたこともある。人付き合いが下手なのは自覚している。でも、今さら変われる気もしない。人との関係にいつも戸惑ってしまう。司法書士という仕事は「人と接する専門職」だと言われるが、そんな自分がやっていることに矛盾すら感じる。

なぜ、この仕事を続けているのか

時々、ふと思う。この仕事、誰のためにやってるんだろう?お金のため?生活のため?それとも責任感?やめるタイミングを逃しただけ?はっきりした答えは出てこない。でも、辞めなかったのは「続ける理由がないわけじゃなかった」からかもしれない。疲れ果ててはいるが、今日も依頼が一つ完了すれば、それなりの達成感はある。

責任感?意地?逃げ遅れ?

「責任感が強いですね」と言われたことがある。でも、それが誇らしいと思えたことは一度もない。むしろ、「責任感で自分を追い詰めてるだけ」じゃないかと感じることの方が多い。責任を果たすことと、自分を犠牲にすることは別の話なのに、その区別がつかなくなっているような気がする。

「辞めたい」は甘えじゃないと言いたい夜

「辞めたい」と思うことは何度もある。でも、そのたびに「そんなのは甘えだ」と自分を叱る。でも、もうそんなふうに自分を責めなくていいんじゃないかと思うようにもなった。誰だって限界はある。逃げることは、必ずしも悪いことではない。自分を壊してまで続ける理由なんて、たぶんない。そう思えるようになっただけでも、少し前より楽になれた気がしている。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。